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【戦国こぼれ話】弱者連合は勝利するのか?大坂の陣で豊臣方に与した牢人の末路。

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
牢人(浪人)といえば江戸時代の印象があるが、中世から存在していた。(写真:アフロ)

■現代でも盛んな合従連衡

 私が子供だった40数年前くらいは、日本の政党はほぼ固定していたので覚えやすかった。しかし、約30年前くらいから政党のスクラップアンドビルドが盛んになり、今やカオスである。

 民主党は民進党になり、次に立憲民主党と国民民主党に分裂し、また最近になって一部が合併した。ただ国会議員数が少ないので、弱者連合という気がしないでもない。

 慶長19年(1614)から翌年にかけての大坂の陣では、多くの牢人が豊臣方に味方するため大坂城に入城した。むろん徳川方の諸大名に与した牢人も存在したが、圧倒的に豊臣方の人数が多かったのは間違いない。それはなぜだろうか。その前に、牢人が誕生した背景を探ることにしておこう。

■牢人が大量発生した事情

 戦国大名が滅亡すると、その家臣は転職することが珍しくなかった。しかし、天正18年(1590)に小田原北条氏が滅亡すると、大戦争はほぼ終結し、戦闘員が必要なくなった。そうなると再仕官が非常に困難になったのだ。

 主家の滅亡だけが牢人発生の原因ではない。たとえば、石田三成に仕えた島清興(左近は俗称)は、自らの腕を頼りにして、次々と主家を変えてきた。武田家の山本勘助などもその一人である。腕に覚えがある者は、あえて転職を希望したのである。

 一方で、武器を携帯する牢人は町や村にも住むことが困難になり、中には侍身分を捨てる者すら存在した。彼らは厄介者と認識され、どこへ行っても歓迎されなかった。特に、京都では牢人が住むのは許可制だった。大戦争時代が終わって、牢人受難の時代が訪れたのである。

■ますます増加した牢人

 慶長5年9月に天下分け目の戦いと称された関ヶ原合戦が勃発すると、さらに多くの牢人を生み出した。加えて、徳川氏による諸大名の減封や改易などもあって、ますます牢人の数は増加したのである。

 そもそも大坂の陣は、戦う前から豊臣方の勝利の可能性は非常に乏しかった。全国各地のほとんどすべての大名たちは徳川方に味方し、豊臣方との兵力差が圧倒的だったからだ。最後の最後まで、豊臣方は有力な大名から支援を得ることができなかったのだ。

 豊臣方は福島正則などに対して、味方になるよう依頼したが、それは叶わなかった。薩摩の島津氏には大野治長が味方になるよう説得したが、けんもほろろに断られている。そこで、どうしても豊臣方が軍事力として頼らざるを得なかったのが、牢人たちなのである。

■牢人を厚遇した豊臣家

 豊臣方では、牢人衆に惜しみなく金・銀を与えた。また、真田信繁ら有力者には、大名に取り立てるとの約束をしたという。豊臣方が勝利を得れば、敵対する全国の大名の所領を取り上げることができる。口約束かもしれなかったが、戦いに勝てば可能であり、お安い御用でもあった。

 ところで、徳川方は勝利を得ても、ほとんどまったくメリットがなかった。敵の大名らしい大名といえば、豊臣秀頼のみである。最初から恩賞は、ほとんどまったく期待できなかったのだ。実際のところ、徳川方の大名は軍役の負担が大きく、困り果てていたのである。

 では、牢人衆はなぜ敗色の濃い豊臣方に与したかが問題となる。

■恩賞が基準だった

 牢人衆の中でも、長宗我部盛親、後藤又兵衛基次、毛利勝永らは、かつて大名の地位にあった。しかし、関ヶ原合戦の敗北などを契機として、不本意な牢人生活を送っていた。

 大坂の陣で徳川方につく選択肢もあったが、それでは大きな飛躍は望めない。そもそも関ヶ原合戦で西軍に与した者は、徳川方から味方になることを認められなかった可能性もある。

 一方で豊臣方に与すれば、徳川方に勝利するという条件付ながら、多大な恩賞が期待できる。また、秀頼も元大名クラスの者には、破格の待遇を約束したケースもあった。普通の牢人たちには、その場で金銀が惜しみなく与えられたので、当座の金を必要とする者には大きな魅力だったといえよう。

■現実主義者だった牢人

 では、牢人衆は「豊臣家のために!」と思って戦ったのであろうか。そうした牢人が皆無とはいえないが、多くは多大な恩賞や目の前で配布される金銀が目当てだったに違いない。彼らの多くは、現実主義者だった。

 しかし、戦いの結果は、豊臣方の敗北だった。その結果、徳川方による「牢人狩り」が行われた。著名な武将で生死のわからない者には、厳しい追及の手が伸びた。仮に生き残ったとしても、「大坂牢人」のレッテルを貼られた者は、仕官が叶わず絶望的な状況に追い込まれたのだ。一攫千金は、夢のまた夢だったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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