【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝の死後、すぐに頼家は征夷大将軍になったわけではない
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼家が父・頼朝の跡を継いだ。父の死後、約2週間もの時間が掛かった理由について、詳しく掘り下げてみよう。
■源頼朝の征夷大将軍就任
建久3年(1192)7月12日、源頼朝は後鳥羽天皇から征夷大将軍に任じられた(『吾妻鏡』など)。昔は、頼朝が征夷大将軍に就任した時点で鎌倉幕府の成立とされてきたが、今は文治5年(1185)説が有力である。
ところが、2年後の建久5年(1194)10月10日、頼朝は征夷大将軍の職を辞したといわれている(『尊卑文脈』)。その理由については、決して明らかにされているわけではない。
頼朝が征夷大将軍を辞したとはいえ、その後の政権運営に支障があったわけではない。朝廷との対応には苦慮するが、東国においてはこれまで通り順調だったといえる。
建久10年(1199)1月13日、頼朝は急に亡くなった。前年から病気がちだったといわれており、その死因は飲水病(糖尿病)、落馬による怪我などが有力視されている。
■源頼家が家督継承を認められる
頼朝が征夷大将軍職を辞してから5年の空白があったものの、その死後の家督相続は大きな問題だった。しかし、源頼家は頼朝の嫡男だったのだから、後継者となるのは既定路線だったといえる。
頼朝の死後から約2週間後の同年1月26日、頼家は朝廷から父・頼朝の家督を継ぐことを認められた(『吾妻鏡』など)。同時に元のごとく、家人によって諸国の守護を奉行することも認められた。
頼家が頼朝の後継者として認められるのに約2週間も掛かったのは、鎌倉から京都に行くのに約1週間を要したからだろう(頼朝の死が幕府から朝廷に伝わったのは1週間後)。
おそらく、頼朝が危篤の段階で、後継者の件も幕府から朝廷に伝わったと考えられる。つまり、実際は頼朝の死を受けて、朝廷は頼家を家督継承者として認めることを即答したと考えられる。
同年1月13日に頼朝が亡くなった一報は、1月20日に朝廷へと届いた。したがって、朝廷は頼朝の死を知った段階で、即座に頼家の家督継承を認めたことになろう。ただし、この時点で征夷大将軍になったわけではない。
頼家が従二位に叙され、征夷大将軍に就任したのは、建仁2年(1202)7月22日のことである。
■まとめ
こうして頼家は、頼朝の後継者になったが、決して自由に政治を差配できたわけではない。背後では北条時政と比企能員が主導権争いをしており、頼家の専制を妨げるため、「13人の合議制」も採用された。やがて、頼家は政権内で浮いてくるが、この点は追々述べることにしよう。