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内在的批評は生産性が低い

寺沢拓敬言語社会学者

拙著『「日本人と英語」の社会学』――なぜ英語教育論は誤解だらけなのか』に書評を頂いた。以下のリンクを参照。

http://www.sanctio.jp/archives/8910

評者への直接のコメントはこちらにまとめたとおりなのでここでは繰り返さないとして、ここではごく一般的な議論をしたいと思う。

内在的批評は生産性が低い

今回あらためて強く思ったのは「内在的批評は概して生産性が低い」という点である。内在的批評とは、著者のロジックを精査し、その矛盾を鋭く突くような批評である。一見ディベート風味でかっこいいのだろう、「これぞ書評!」とか「これぞ指定討論者!」などとしばしば院生・学部生も勘違いすることもあるが、実際のところ、学術的な生産性は高くない。

したがって、そのようなタイプの批判派よほどの覚悟がない限りやめたほうが無難である。どうしても批判をしたいとき(あるいは批判をすることが求められているときは)、外在的批評をしたほうがみんなの利益になるはずである。

学術書の著者は通常そのテーマに関しては最も詳しい専門家のひとりであるので、ロジックをめぐる問題点は度重なる精査をくぐり抜けているのが普通である。さらに出版物は通常、多数の人間の目によって徹底的に検討されている(本書も例外ではなく、約半数の章が査読論文をベースにしている)。

こうした状況だから、その本をたいして読んでもいないのに、その本のロジックを鋭く突くというのは、途方もなく望み薄の作業である。鋭く指摘したつもりが、単に評者の読みが浅かっただけという例がほとんどだろう。その場合、情報量の増加はゼロである。

書評された側はたまったものではない。そのような「的外れ内在的批評」に応答したとしても、私たちの知の総量は一切増えない。これほど虚しいリプライコメントはなかなかない。じじつ、今回の反論もひどく虚しい作業だった。

一方で外在的批評とは、著者が言及しなかった別の理論・別のデータ・別の事例を提示することで、著者の議論を相対化することである。もちろん外在的批評でも的外れになることもあるが、少なくとも情報量は多少は増える。逆に、一見的外れであるほど情報量の飛躍的な増大の可能性を秘めているとすら言える。著者が考えもしなかった論点である可能性があるからだ。

ただし、外在的批評は簡単というわけではない。それ相応の汗をかく必要もある。著者が言及していない理論・データ・事例を引っ張ってくる必要があるのだから、それは当然である。

それでもなお、書評や指定討論を通して「知の総量の増加」に貢献しようとするなら、外在的批評を意識し、著者や読者に情報提供を試みるという姿勢を強く推奨したい。

もちろん自分の頭の鋭さを見せびらすために他者の著作を批評するのなら、どうぞ内在的批評に徹してもらえればいい。その目論見が成功するかどうかは保証しないが、自己責任でどうぞご自由に。

言語社会学者

関西学院大学社会学部准教授。博士(学術)。言語(とくに英語)に関する人々の行動・態度や教育制度について、統計や史料を駆使して研究している。著書に、『小学校英語のジレンマ』(岩波新書、2020年)、『「日本人」と英語の社会学』(研究社、2015年)、『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社、2014年)などがある。

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