石井会長、素顔は“気遣いの人”だった
「コント赤信号」らを育て、自らもタレントとして活躍した「石井光三オフィス」の石井光三会長が亡くなり、芸能界に大きなショックが広がった。
訃報がマスコミに届いた13日に会見を開いたラサール石井は、「赤信号は石井光三さんがいなかったら、ここにはいません」と恩人への感謝を表したが、取材を進めると、まさにその言葉どおりのエピソードが続々と出てきた。
俳優からマネジャーへ
そもそも、石井会長は1946年(昭21)に東横映画京都の第1期ニューフェースになるなど、俳優としてキャリアをスタートさせた。しかし、正直、俳優としては芽が出ず、当時人気を誇った故・ミヤコ蝶々さんのマネジャーとなり、63年に蝶々さんが「松竹芸能」に所属することにともない、石井会長も「松竹芸能」に入社することになった。その後、蝶々さんは独立して同事務所を離れるが、石井会長は残ってマネジャーとしての腕をふるうことになる。
「松竹芸能」時代の石井会長の部下で、後に大阪芸術大学教授、演芸評論家となる相羽秋夫氏は「もともと自分も俳優で舞台に立つ側だったため、芸人の細かな“呼吸”が分かる方でした。姉妹とはいえ女性3人で意見が食い違いやすい『かしまし娘』さんをマネジャーとして見事にまとめ上げるなど、石井さん以外の社員ではできなかったことをたくさんされていました」と振り返る。
自分でボサボサに…
83年、独立して「石井光三オフィス」を立ち上げてからも、裏方でありながら出役の気持ちも分かるというスタンスを活かして若手育成に力を入れた。
若手時代の赤信号が番組でスベると、3人をプロデューサーらスタッフの前でどやしつけた。あまりの剣幕にプロデューサーが「石井社長、そこまで言わなくても…」と止めに入ったところで楽屋に戻り、3人には「もうこれでお前らのことを慰める人はいても、怒る人間はおらんようになったやろ」と激怒の“からくり”を説明したという。
また、ラサールがフジテレビ系「オレたちひょうきん族」の中でやった、ボサボサ頭でガサツに振る舞う石井さんのモノマネでブレイクしたことから、普段はしっかりとセットしていた髪をカメラの前に出る時にはあえて崩してボサボサにし、自らラサールのモノマネに近づけていくことによって、そのクオリティーを上げていた。
テレビ局の紙袋をぶら下げて
さらに、豪快なイメージとは裏腹に細やかな気遣いも。
「テレビ局に行く時には、例えば、日本テレビに行く時には日本テレビの、テレビ朝日に行く時にはテレビ朝日の、といった具合に、その局の紙袋をぶら下げて出向いていました。もし紙袋がない時は、その局のロゴをコピーして紙袋に張り付けてまで持っていっていた。周囲の人間に対する気遣いの表れだったと思います」(スポーツ紙デスク)。
「松竹芸能」の社員時代は大阪・高槻市に自宅アパートがあり、そこに後輩社員を招いて酒や料理を振る舞っていたという。相羽氏も、しばしばお呼ばれした。
「帰宅すると、風呂に入りながら浪花節を朗々と歌い上げるんです。当時のアパート、しかも、通気口もある風呂場。周りに浪花節が筒抜けになって、こちらが『隣に迷惑をかけてないかな…』と心配になるくらいの声量だったんですが、そこは気にせず歌われるんです。実に堂々としたものでした」(相羽氏)。
誰もマネできない細やかな気遣いと、出役としての押しの強さ。この2つが同居していたことが、石井会長が成功した秘訣と言えるのかもしれない。