年内引退を発表した田中勝春。彼から笑みが消えた2度の出来事と目指す厩舎とは?
笑顔で包まれたウィナーズサークル
その瞬間、競馬場に笑顔の花が咲いた。同じ光景を、同じ中山競馬場で見た記憶があった。
2007年の春の話だった。この時、皐月賞(GⅠ)でカッチーこと田中勝春が手綱を取ったのはヴィクトリー。18頭立て7番人気の伏兵だったが、掛かり気味にハナに立つと、そのまま逃げ切ってみせた。そのレース直後の事だった。満面の笑みの田中の頭を、オーナー関係者が愛情表現として、はたく真似をした。すると、田中は笑顔のまま、ずっこける素振り。これを見た観客から、大きな笑い声が上がった。
それから16年が過ぎた。当時、頭をはたく真似をしたオーナー関係者は鬼籍に入った。田中は調教師試験に合格し、騎手引退を表明した。そんな中での騎乗となった12月16日の中山競馬場。最終12レースの4コーナー、この日が怪我からの復帰初日となった武豊が、好位から前を射程圏に入れて進出して来ると、スタンドがどよめいた。しかし、思ったほど伸びない。どよめきが消沈のため息に変わった時、代わって上がって来たのがヤングワールド。その鞍上は田中勝春。ここで再びスタンドから大声援が上がった。
結果、先頭でゴールを切ったのは田中だった。引退表明後、初の勝利に、ウィナーズサークルでは「やめないでー!」の声が上がる。これに応えるように田中が「やめるのやめようかな?!」と笑顔で言うと、勝利を称えに来た大勢のファンに笑顔が連鎖した。
引退の危機を救った一人の男
彼が明るい性格である事は、カッチースマイルと言われる笑顔と共にファンの間にもすっかり浸透している。しかし、そのカッチースマイルに、叢雲がかかった事が、2度だけあった。
1度目は1989年、デビューして1カ月が過ぎた頃だった。4月2日の競馬を終えた翌日、月曜日の朝。目覚めた田中は自分の体の異常に気付いた。
「身体が動かなくて、起き上がる事すら出来なかったんだよね……」
異常に気付いたのは、師匠である藤原敏文調教師の奥様だった。いつまで経っても起きて来ない田中を、部屋まで迎えに来て、驚いたのだ。
すぐに病院へ運ばれ、診察した。その結果、バセドウ病との診断。急に環境が変わった事のストレスが原因だと、言われた。
「緊急入院した後、とりあえず自然の豊かな場所で暮らすなどして、リハビリをしました」
復帰までは約半年かかった。10月、改めて騎手デビューを果たすのだが、そんな時、ある噂を耳にした。
「もう騎手を続けるのは無理だろう、周囲からやめさせる動きもあったみたいです。でも、師匠が『自分が責任を取るから』と、その動きに待ったをかけてくれたらしいです」
藤原敏文調教師のそんな活動がなければ、もしかしたら田中勝春のその後は全く違う人生になり、現在の彼の姿もなかったのかもしれない。
目指す厩舎
こうして師匠の助けもあって無事に騎手になった田中は92年に自身初のGⅠ制覇を記録する。ヤマニンゼファーを駆っての安田記念(GⅠ)制覇だった。
喜びの頂点へいざなってくれたヤマニンゼファーは、しかし、後に地獄へとも導く使者となった。それが2度目の、笑顔が失せる出来事だった。
93年の天皇賞・秋(GⅠ)。田中はセキテイリュウオーとのタッグで、ここに臨んだ。
「抜群の手応えで直線を向いたので、これなら勝てると思い、仕掛けました」
しかし、ゴール直前、脚色が鈍った。
「使える脚の短い馬でした。もう少し我慢してから仕掛ければ良かったけど、当時の自分は若くて経験も浅かったので、手応えに騙されて喜び勇んで行っちゃった分、最後はいっぱいになりました」
ハナだけ差されて2着に惜敗。差してかわしたのは、昨日の友ヤマニンゼファーだった。
「競馬で泣く事は滅多にないけど、この時は泣けましたね」
涙が溢れた理由は、ただ負けた事に対する悔しさだけではなかった。
「セキテイリュウオーは師匠の管理する馬でした。師匠はGⅠを勝った事がなかったから、恩返しの意味でも何とか勝ちたかった。それだけに悔しくて、涙が出たよね」
そんな涙が枯れる出来事があった。その後、藤原は現役調教師のまま他界してしまったのだ。
「結局セキテイリュウオーのあの天皇賞がGⅠ勝ちの最大のチャンスであり、最後のチャンスでした。師匠が亡くなった時は、自分の情け無さに涙も出ませんでした」
そんな田中も師匠と同じ調教師になる事が決まった。
「皆が気軽に集まれるような賑やかな厩舎にしたいかな」
彼の性格なら、放っておいてもそういう厩舎になるだろう。いや、その前に、開催日数にして残すところ3日となったジョッキー田中勝春を、皆で堪能させてもらおう。きっと藤原も、空の上からその様子を見守ってくれている事だろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)