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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が「頼りになるのか」と大いに不安がった老武将4人

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は挙兵に際して、老武将が多いので不安になったというが・・・。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝が挙兵に際して、頼りになるのかと大いに不安がった老武将が何人か登場した。そのうちの老武将を4人取り上げることにしよう。

■岡崎義実(1112~1200)

 天永2年(1112)、岡崎義実は三浦義継の子として誕生した。後述する三浦義明の弟である。のちに相模国大住郡岡崎郷(神奈川県三浦市・伊勢原市)に本拠を置き、岡崎を名乗った。

 治承4年(1180)に頼朝が「打倒平氏」の兵を挙げたとき、義実は頼朝から「まだ挙兵のことは口外していないが、あなただけを頼りにしている」と言われたという。

 先取りするようだが、頼朝は同年の平兼隆の館の襲撃に成功。続いて平氏方の大庭景親の軍勢と戦って、敗北を喫した。その際、義実の嫡男・佐奈田義忠が討ち死にした。

 のちに義実は、義忠を討った長尾定景の処分を頼朝から任されたが、助命を願ったといわれている。

■佐々木秀義(1112~1184)

 天永2年(1112)、佐々木秀義は為俊の子として誕生した。近江国蒲生郡佐々木荘(滋賀県近江八幡市)に本拠を置いたので、佐々木を名乗った。

 秀義の妻は源為義(義朝の父)の娘で、源氏とは関係が深かった。秀義は、佐々木四兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)の父でもある。

 保元元年(1156)の保元の乱では源義朝(頼朝の子)に味方し勝利に貢献したが、平治元年(1159)の平治の乱には義朝に与して敗北した。

 敗北後、秀義は子らと奥州の藤原秀衡(秀義の伯母の子)を頼るべく逃走するが、相模国の渋谷重国(秀義の側室の父)のもとに逗留した。

 治承4年(1180)に頼朝が「打倒平氏」の兵を挙げたとき、秀義は佐々木四兄弟とともに、真っ先に馳せ参じたのである。

■千葉常胤(1118~1201)

 元永元年(1118)、千葉常胤は常重の子として誕生した。上総国相馬御厨(千葉県柏市ほか)を領する大豪族で、のちに源義朝に従い、保元元年(1156)の保元の乱では味方した。

 ところが、平治元年(1159)の平治の乱で義朝が敗れると、状況は一変。支配していた上総国相馬御厨が奪われ、平氏と結んだ近隣の豪族・藤原親正の勢力拡大により、常胤は厳しい状況に追い込まれた。

 そのような事情があったので、常胤が「打倒平氏」の気持ちを抱くのは当然だった。

 治承4年(1180)に頼朝が「打倒平氏」の兵を挙げると、ただちに子の胤正とともに出陣し、勝利に貢献した。その後、宿敵だった藤原親正の捕縛にも成功したのである。

■三浦義明(1092?~1180)

 三浦義明は生年に諸説あるが、義継の子として誕生した。先述した岡崎義実は弟である。相模国三浦荘(神奈川県三浦市)に本拠を定めて三浦氏を名乗り、在庁官人として「三浦大介」を名乗った。

 そもそも三浦氏は源義朝の家人であり、娘は義朝の妻となった。2人の間に誕生したのが嫡男の義平(頼朝の兄)である。義明が頼朝のもとに馳せ参じたのは、義朝との関係にあろう。

 結論を先取りするようだが、治承4年(1180)に頼朝が「打倒平氏」の兵を挙げると、義明は居城の衣笠城(神奈川県横須賀市)に籠城した。しかし、奮闘虚しく、平氏方の畠山重忠に攻められ敗死した。

 義明は無念にも戦死したが、子の義澄はのちに頼朝の軍勢に合流して再起を期した。

■むすび

 ドラマでの頼朝は味方が老人ばかりで、いささか不安だったようだ。当時の平均寿命は今より短かったが、それは医療が未発達だったからで、老人であっても十分な働きをしたはずである。

 また、当主たる老武将だけでなく、壮年期に至っていた子が非常に期待された。つまり、実際の頼朝は決してがっかりすることなく、力強く思ったのは疑いないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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