こんなにたくさんいた! 家康の側室となった女性たち
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の側室となった「お葉」が登場した。家康には、「お葉」以外の側室もいたので、その一部を取り上げて紹介しよう。
小督局は、天文17年(1548)に永見貞英の娘として誕生した。「おこちゃ」と称されている。そもそも小督局は築山殿に仕えていたが、家康の手付となり、天正2年(1574)に秀康を生んだ。元和5年(1619)、小督局は越前北庄(福井市)で病没した。享年72。
西郷局は、天文21年(1552)に戸塚忠春の娘として誕生した。西郷局は三河の武将・西郷義勝と結婚したが、のちに死別。その後、家康の側室となり、秀忠、忠吉という2人の男子に恵まれた。天正17年(1589)に亡くなった。享年38。
茶阿局は、生年不詳。最初は、遠江国金谷村(静岡県島田市)の鋳物師の後妻だったといわれている。土地の代官が茶阿局の美貌に目がくらみ、夫を殺害して彼女を妾にした。
しかし、茶阿局は代官を嫌い、鷹狩りにやって来た家康に代官の非法を訴えた。結果、代官は死罪となり、茶阿局は家康の側室となったのである。残酷な話でもある。
天正20年(1592)には忠輝を、文禄3年(1594)に松千代を生んだ。茶阿局は政治力を持ち、強い発言権があった。しかし、忠輝はのちに失脚。茶阿局は、元和7年(1621)に病没した。
お亀の方は、正法寺(京都府八幡市)の志水宗清の娘だったといわれている。もとは竹腰正時の妻だったが、死別した。その後、石川光元の側室となったが、離縁。文禄3年(1594)に家康の側室となった。文禄4年(1595)に仙千代、慶長5年(1600)に義直を生んだ。
お亀の方は、御陣女郎であったといわれている。彼女は御陣女郎として家康に扈従すると、それを縁にして洛西に住む桂女たちが、彼女を慕って大勢陣中へ押し寄せたという逸話がある。本来、桂女は行商人であったが、のちに性的な仕事に携わるようになった。
このように、家康の側室には実に多彩な女性がいた。政略結婚もあれば、自分が好きになって側室にした例もある。とはいえ、ここで取り上げた側室は、まだ一部にすぎない。改めて、残りの側室を紹介したいと思う。