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【光る君へ】源明子の父・高明を失脚に追い込んだ「安和の変」とは、どんな事件だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、源明子と藤原道長との結婚についての話題が持ち上がっていた。

 ところが、明子はこの話を進めてほしいと言いながらも、深く藤原一族を恨んでいるようだった。それは、父の高明を失脚に追い込んだ「安和の変」に理由があったのだが、どんな事件だったのか述べることにしよう。

 明子の父・高明は、延喜14年(914)に醍醐天皇の皇子として誕生した。その6年後、高明は源姓を与えられ、臣籍に降下した。臣籍降下とは皇族の身分を離れ、臣下の籍に降りることをいう。

 その理由は皇族の数が増え、国家財政を圧迫するようになるなどの事情があった。しかし、高明の昇進は目覚ましく、安和元年(968)には左大臣になったのである。

 高明の妻は、藤原師輔(兼家の父)の娘だった。妻の姉の安子は、村上天皇の中宮だった。村上天皇と安子との間には、憲平親王(のちの冷泉天皇)、為平親王、守平親王(のちの円融天皇)の3人の皇子がいた。

 村上天皇は退位後、憲平親王を新天皇とし、為平親王を皇太子に据えようとしていた。為平親王が年長だったので、これは既定路線だったといえる。

 ところが、これを恐れたのは、藤原実頼、伊尹、兼家ら藤原一族である。為平親王が皇太子となり、その後さらに天皇になると、高明の台頭を許すことになる。高明が外戚となり、専横を振るうことを恐れたのである。

 そこで、実頼らは為平親王が皇太子になることを拒否し、右大臣の藤原師尹が推す守平親王を皇太子に据えたのである。予想外のことだったので、高明は窮地に陥った。

 師輔、安子はすでに亡くなっており、高明は後ろ盾を失っていた。そのような状況の安和2年(969)、高明は東国で挙兵し、為平親王を新天皇に擁立しようとしているとの噂が立ったのである。

 当初、源満仲は高明に与同していたが、朝廷に密告して事が露見したという。その結果、同年3月26日に臨時除目が行われると、高明は大宰権帥に左遷され、代わりに師尹が左大臣に就任したのである。

 高明は嫡男の忠賢とともに出家し、京都に留まりたいと懇願したが、それは許されなかった。高明の罪が許され、京都に戻ってきたのは、天禄2年(971)のことである。以後、高明は隠棲生活を送ることとなり、天元5年(982)に亡くなったのである。

 つまり、明子が深く藤原一族を恨み、特に兼家の名を出していたのは、安和の変で父の高明が失脚したからだった。なお、高明の子の俊賢、経房兄弟は順調に昇進を重ね、それぞれ権大納言、権中納言になった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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