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【深読み「鎌倉殿の13人」】八嶋智人さんが演じる武田信義のルーツは、甲斐ではなかった!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信義は、武田八幡宮で元服式を執り行った。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」6回目では、八嶋智人さんが演じる武田信義が登場した。武田氏といえば甲斐であるが、実はそうではなかったという説もある。この点を考えてみよう。

■武田氏のルーツ

 武田氏の源流については、諸説ある。従来説では、清和源氏(河内源氏)の流れを汲む源義光(1045~1127)が甲斐に土着し、そのまま甲斐武田氏の祖となったとされてきた。義光の祖父・頼信(968~1048)は、甲斐守を務めていた。

 しかし、最近の研究では、①義光自身が甲斐守に任官された事実、②甲斐へ入国した事実は、疑問視されている。われわれは漠然と「武田氏は甲斐の出身」と思っていたが、そうとはいえないのである。

 実際に初めて甲斐に入国したのは、義光の三男・義清である。義清が本拠を置いたのは、常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)だった。義清は本拠の「武田」を名字としたのである。武田氏のルーツは、今の茨城県ということになろう。

 大治5年(1130)、義清の子・清光が乱暴狼藉を働き、甲斐国巨摩郡市河荘(山梨県市川三郷町)に流罪となった(流罪の地は諸説あり)。この事件が、武田氏と甲斐国の接点となった。

 その後、義清・清光は逸見荘(山梨県北杜市)に本拠を定め、「逸見」を名字とした。「武田」を名字としたのは、清光の子・信義である。その経緯は、後述することにしよう。

 ただし、武田氏の系図や由緒書では、義光を始祖としている。義光は武芸に優れていたので、彼を始祖にすることで「箔付け」をしたのであろう。義清では、ネームバリューがなかったのだ。

 武田氏の庶流は各地にも存在し、室町期に守護を務めた安芸武田氏や若狭武田氏はその代表である。彼らは戦国時代に衰退したので目立たないが、甲斐武田氏の一族である。

■武田信義の登場

 武田信義が清光の子として誕生したのは、大治3年(1128)のことである。信義は次男で、光長が長男だった(同日に生まれた双子だったという)。逸見家を継いだのは光長だった。

 保延6年(1140)、13歳になった信義は、武田八幡宮(山梨県韮崎市)で元服式を執り行った。以降、信義は「武田」を名字にしたという。これこそが完全なる甲斐武田氏のはじまりといえよう。

 治承4年(1180)、以仁王が「打倒平氏」の令旨を各地に送ると、信義もただちに応じた。石橋山の戦いで敗北した北条時政・義時父子は、信義を頼り甲斐に逃げ込んだ。時政・義時父子が頼りにしたのだから。相応の軍事力を保持していたのだろう。

 同年9月、信義は諏訪社(長野県諏訪市)に入ると、すぐさま平家に与した信濃の豪族・菅冠者を討ち取った。一連の流れから。信義が平氏を打倒しようと考えたのは、事実である。こうして信義は、信濃国内の平氏の勢力を掃討した。

 同年10月、信義は軍議を催し、駿河に侵攻することを決意した。一方、平氏方は源頼朝らの挙兵を知り、ただちに平維盛を総大将とする軍勢を東国に急行させた。当初、平家は油断していた節があるが、もはや静観できない事態になっていたのである。

 駿河国で目代を務めていたのは、平家方の橘遠茂だった。遠茂は反平氏の軍勢との戦いを想定し、駿河・遠江から味方となる兵を招集した。

 一方の信義は、嫡男の一条忠頼、五男の信光、同族の安田義定らとともに、駿河へ向かった。そして、鉢田の戦いで平家方との戦いに勝利し、遠茂を生け捕りにしたのである。これにより反平氏の東国の諸豪族は、一気に弾みをつけたのである。

■むすび

 ひとまずは、甲斐武田氏のルーツが常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)にあったことを確認しておこう。信義は頼朝と同じ源氏で、大軍勢を率いる頼りになる存在だった。このあと富士川の戦いが勃発するが、それはまたドラマの進展にあわせて紹介しよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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