【深読み「鎌倉殿の13人」】源範頼は、兄の頼朝から謀反を疑われていたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の23回目では、最後の場面で大江広元が頼朝に範頼の野心を告げていた。本当に範頼は兄の頼朝から謀反を疑われていたのか、詳しく掘り下げてみよう。
■源範頼の存在
これまで、ドラマのなかでは、東国の御家人が「範頼様が鎌倉殿だったらなあ!」と述べるなど、範頼を持ち上げる言動をしていた。これが、範頼に謀反の嫌疑を掛けられた伏線の一つになっている。
範頼は頼朝の弟で、頼朝が打倒平家の兵を挙げると、ただちに従った。どちらかと言えば、弟の義経の存在がクロースアップされ、範頼は目立たないが、平家滅亡の立役者の一人だったのは事実である。三河守に任官されるなど、義経よりは厚遇されていた。
ドラマの23回目では、大江広元が頼朝に範頼の野心を告げ、頼朝は激怒していた。とはいえ、なぜ範頼が兄の頼朝に討たれたのか、もう少し考えてみる必要があるだろう。
■運命の曽我兄弟の仇討ち
建久4年(1193)5月28日、曽我兄弟(曽我祐成、時致兄弟)は長年の宿敵の工藤祐経を討った。しかし、『保暦間記』という史料には、あわせて頼朝が討たれたことを記録している。
仇討ちの舞台となった富士の巻狩りで「頼朝が討たれた」との一報は、鎌倉にいた頼朝の妻・北条政子のもとにもたらされた。政子は「頼朝死す」の一報を耳にして、悲嘆に暮れたという。
すると、鎌倉で留守を預かっていた範頼は、「頼朝様が討たれたということならば、私がおりまする」と政子を慰めたところ、野心を抱いたとされ、のちに討たれる理由になったという。この一言によって、頼朝は範頼に謀反の意があると思ったのだ。
『保暦間記』は、保元の乱から暦応年間(1156~1342)までの歴史を記した書物で、南北朝時代に成立したといわれている。諸史料に書かれていない記事があるので注目されるが、捏造、改竄されたと思しき記事もあるという。
したがって、『保暦間記』の記事だけを根拠として、範頼に叛意があったので、頼朝が討伐したというのは、さらに検討を要しよう。
■まとめ
範頼が頼朝に討たれた理由は、そんな短絡的なものではないと考えられる。その点については、次回の24回目で範頼が殺されると思うので、その際に改めて考えてみよう。