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長篠城の攻防はじまる!鳥居強右衛門は、なぜ磔になったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、長篠城の攻防が描かれていた。攻防では鳥居強右衛門が磔にされたが、その経緯について考えることにしよう。

 天正3年(1575)5月、武田勝頼は1万5000の軍勢で奥平貞昌(のちの信昌)が籠る長篠城(愛知県新城市)を攻囲した。長篠城の城兵は、わずか約500だったという。5月8日に長篠城の攻防がはじまると、城内の兵糧が乏しくなり、長篠城は落城のピンチに陥った。

 貞昌は援軍を要請すべく、家康の居城・岡崎城(愛知県岡崎市)へ使者を送ることにしたが、長篠城は武田氏の大軍に攻囲されており、極めて困難だった。この状況下において、使者を志願したのが鳥居強右衛門である。

 5月14日、強右衛門は長篠城を発つと、武田軍の監視を逃れるため、川を潜って移動した。5月15日の朝、強右衛門は雁峰山から狼煙を上げ、脱出に成功したことを長篠城に知らせた。午後には岡崎城に到着し、家康に援軍の要請を行ったのである。

 家康は織田信長に援軍を求め、織田軍3万、徳川軍8000の計3万8000の軍勢を長篠城に送り込むことになった。強右衛門は計画を貞昌に伝えるべく、長篠城へと急いだ。5月16日早朝、強右衛門は雁峰山から狼煙を上げ、長篠城に入城する旨を知らせたのである。

 しかし、武田軍は烽火が上がるたびに城内から歓声が上がるのを不審に思い、警戒態勢を強めていた。結果、強右衛門は長篠城の近くで武田軍に捕らえられた。強右衛門を取り調べると、織田・徳川連合軍3万8000が長篠城に向かっていることを知った。

 勝頼は強右衛門に命を助け、武田家の家臣として迎えるという条件を示し、「長篠城には織田・徳川の援軍は来ないので、すみやかに城を明け渡せ」と虚偽の情報を伝えるよう求めた。強右衛門は勝頼の命令に応じ、長篠城西岸の見通しのよい場所へ連行された。

 ところが、強右衛門は長篠城の城兵に対して、「あと2・3日で援軍が来るので、それまで持ち堪えよ」と叫んだ。勝頼は強右衛門の裏切りに激昂し、配下の者に殺害させたといわれているが、今では磔にしたという説が有力視されている。

 16世紀に作成された「落合左平次道次背旗」(東京大学史料編纂所所蔵)は、武田家の家臣・落合左平次道久が強右衛門の忠誠心に感銘を受け、背旗に逆磔にされた姿を描いたものといわれている。一方で、この時点で道次は徳川家に属しており、疑わしいとの説もある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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