【深掘り「逃げ上手の若君」】鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ足利尊氏と新田義貞とは
■足利尊氏と新田義貞
鎌倉幕府の滅亡に大いに貢献したのは、足利尊氏と新田義貞である。日本史の教科書にも出てくる人物であるが、もうお忘れの方も多いのではないだろうか。今回は、この2人の人物を深掘りすることにしよう。
■足利氏と足利尊氏
最初は、足利氏と足利尊氏を取り上げることにしよう。
足利氏の先祖は、清和源氏の源義家(1039~1106)の孫・義康(1127~57)である。義康は下野国足利荘(栃木県足利市)を領し、やがて足利を名字にした。足利荘は、現在の栃木県足利市一帯に広がる広大な荘園だった。参考までに述べておくと、足利氏には藤原秀郷の流れを汲む一族もある。
義康の妻は、源頼朝(1147~99)の母の妹だった。そうした縁もあって、鎌倉幕府が開幕すると、義康の子・義兼(1154?~99)は御家人として重用された。なお、義兼の妻は北条時政の娘であり、北条氏とも姻戚関係にあったことに注意すべきであろう。
義兼以後、足利氏は鎌倉幕府内で大きな存在感を示し、三河、上総の守護職を務め、上野、下野、相模、美作、陸奥などの広範な地域に所領を保持した。その威勢は、後述する新田氏を凌ぐものがあった。
尊氏が誕生したのは、嘉元3年(1305)のことである。父は貞氏(1273~1331)、母は清子(1270~1343)である。なお、尊氏の妻は、執権を務めた北条守時の妹・登子である。
もともと尊氏は、北条高時から諱の「高」の字を与えられ、「高氏」と名乗っていた。ところが、建武政権が発足すると、後醍醐天皇から諱の尊治の「尊」の字を与えられ、尊氏と名乗った(以下、尊氏で統一)。
元応元年(1319)10月、尊氏は15歳で元服すると、従五位下・治部大輔に叙位任官された。これは破格の扱いであり、北条氏に準じるような待遇だった。先述のとおり、高時から偏諱を授与され、守時の妹を妻に迎えたのだから、厚遇ぶりが理解できる。幕府に従うのは当然だったのだ。
ところが、尊氏は後醍醐の要請に応じて、倒幕に参加する。鎌倉幕府滅亡後、尊氏は鎮守府将軍、左兵衛督に任じられ、弟の直義も左馬頭になった。
■新田氏と新田義貞
次に、新田氏と新田義貞を取り上げることにしよう。
新田氏の先祖は、清和源氏の源義家の孫・義重(1114?~1202)である。つまり、足利氏と根は同じである。義重は上野国新田荘(群馬県太田市など)を領し、やがて新田を名字にした。新田荘は、現在の群馬県太田市およびその周辺地域に広がる広大な荘園だった。
義重も足利氏と同じく、鎌倉幕府の成立後は御家人となったものの、将軍や執権の北条氏と折り合いが悪く、幕府内では冷遇されたといわれている。しかし、一族は大いに繁栄し、新田氏の庶流としては、岩松、世良田、脇屋、山名、里見、大井田、鳥山などの各氏が知られている。
義貞が誕生したのは、正安3年(1301)のことである。父は朝氏(朝兼)(1274~1318)、母は不詳である。父の朝氏は史料が乏しく、影が薄い人物だった。
義貞が倒幕のため生品神社(群馬県太田市)で挙兵したのは、元弘3年(1333)5月のことである。新田氏一族や諸将を動員し、尊氏の子・千寿王(義詮)を擁して、鎌倉に攻め込んだ。鎌倉幕府滅亡の立役者だったのだ。
戦後、義貞は後醍醐天皇から従四位上の官位と左兵衛佐を与えられ、あわせて越後・上野の国司にも任じられたのである。これで、義貞は尊氏と並びうる存在になった。