【深掘り「鎌倉殿の13人」】鎌倉幕府は源頼朝の独裁と朝廷の模倣で支えられていた
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はいったん休憩で、座談会となった。今回は鎌倉幕府が維持された理由について、詳しく掘り下げてみよう。
■源頼朝の独裁制
鎌倉幕府の根幹は、源頼朝の独裁制にあった。御家人からの強い求心力を保持していた頼朝は、弟の義経や範頼であっても、容赦なく死に追いやった。そのような冷酷な態度は、御家人を畏怖させるのに十分だった。
頼朝の独裁制を支えたものは2つあった。1つ目は自身が武家の棟梁であることを主張し、それが朝廷から認められたことにあろう。「文治の勅許」や征夷大将軍就任は、その証でもある。
もう2つは頼朝が貴種であることを自認し、朝廷の制度を模して、幕府の政治機関を整備したことだった。政所はその代表であり、京都から大江広元、三善康信といった下級公家を招いて業務を担当させた。
頼朝は武家の棟梁として絶対的な権威を獲得し、東国の豪族との間に主従関係を形成した。そして、幕府の諸機関に京都から招いた文官を配置し、独裁制を確固たるものにしたのである。
■幕府が抱えた矛盾
頼朝の独裁性が確立し、幕府政治が安定してくると、さまざま矛盾が生じることになった。文官たちの地位が上昇すると、豪族との間の反目が露見するようになったのである。
文官は政所などの公的な政治機関を根幹として、頼朝の独裁制を支えた。一方、豪族は武家の権威である「鎌倉殿」としての頼朝個人との私的な信頼関係を重視した。頼朝の公的な側面と私的な側面が矛盾を抱えたのである。
豪族は頼朝を推戴して幕府を築き上げたという自負があったが、一方で幕府を統制するには、諸機関を設置して運営していく必要があった。その結果、文官と豪族は対立的な様相を呈したのである。これが、初期の幕府の矛盾だった。
■まとめ
こうした矛盾は、頼朝のカリスマ性、独裁制によって封じ込められた。頼朝の見事な政治的手腕によって、不満を抑え込んだのである。しかし、頼朝が亡くなると、その抑止力が効かなくなった。以後、幕府内では激しい権力闘争が続けられるのである。