【深掘り「鎌倉殿の13人」】公暁が知らなかった、父・源頼家のあまりに悲惨な最期
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、公暁が父・源頼家の悲惨な最期を知らなかった場面があった。頼家の最期はいかに悲惨だったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■失脚した源頼家
ドラマの終盤、公暁は父・源頼家の最期を知らなかったようで、三浦義村から聞かされていた。それが事実か否かは別として、いずれは公暁の知るところになっただろうから、怒りに打ち震えていたのは確かだろう。以下、頼家の失脚から死までを確認しておこう。
建仁3年(1203)7月、源頼家は突如として重病となった。その直後、北条時政は比企能員能員ら比企一族を討伐し、頼家の子・一幡も焼死したのである(比企の乱)。
乱後、頼家は病気から回復したが、後ろ盾だった能員ら比企一族は滅亡し、北条一族にとって用済みになっていた。同年9月29日、頼家は将軍の座を追われ、伊豆の修禅寺に蟄居させられたのである。
■頼家の悲惨な最期
元久元年(1204)7月18日、頼家が亡くなったとの一報が鎌倉にもたらされた(『吾妻鏡』)。死因が書かれていないので、諸書によって探ることにしよう。
歴史物語の『増鏡』、『武家年代記』は、北条義時(時政の子)が頼家を殺害したと書いている。むろん、義時が直接頼家を殺したのではなく、配下の者に命令して殺害させたのだろう。
『梅松論』、『承久記』は、時政が頼家を殺したと記している。殺害理由については、頼家は悪事が多かったので、時政が命じて殺害させたと伝える(『梅松論』)。
慈円の『愚管抄』は、頼家が殺された状況を具体的に記している。頼家は首に緒(ひも)を括りつけられ、「ふぐり(陰嚢)」を切り取られて殺されたという。
殺害した人物の名前は書いていないが、あまりに残虐な殺害の方法だ。頼家の死は、あまりに悲惨だったのだ。
■まとめ
今となっては時政の命令だったのか、義時の命令だったのかは不明である。おそらく北条氏の総意として、頼家は消されたということになろう。
すべてを知った公暁が恨みを抱くのは、無理からぬところである。