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実は強かで力強く、夫も捨てた清少納言の実像

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
清少納言。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、「ききょう(清少納言)」の発言が注目された。

 清少納言は「まひろ(紫式部)」に対して、夫を捨てたいと思っていること、そして自分自身のために生きたいという正直な心情を吐露していた。この辺りの心情を考えてみよう。

 清少納言は、生没年不詳。紫式部と同じ時代を生きた女性である。清少納言の父は清原元輔といい、さほど身分が高くない公家だった。とはいえ、元輔は和歌に優れており、三十六歌仙の1人としても知られた人物である。

 寛和2年(986)、元輔は肥後守に任じられたが、すでに79歳の高齢となっていた。亡くなったのは、永祚2年(990)のことである。

 清少納言が結婚したのは、天元4年(981)頃だといわれている。相手は、橘則光といい、藤原斉信の家司を務めたこともあった人物である。

 則光は長徳元年(995)に六位・蔵人に叙位・任官されると、その後も少しずつ昇進を重ね従四位上に叙位され、土佐守、陸奥守などを歴任した。

 しかも則光は、『金葉和歌集』、『続詞花和歌集』に自身の和歌が入集するなど、その方面の才能もあった。武勇にも優れており、盗賊を取り押さえたという話も残っている。

 2人の間には、子の則長が誕生した。しかし、その頃から夫婦関係に亀裂が入ったのか、長徳4年(998)頃に2人は離婚したという。則光は優れた和歌を詠んだが、清少納言から見れば、まだまだのレベルだった模様である。

 その後、清少納言は、藤原棟世と再婚した。棟世は、清少納言より20歳以上も年上だったといわれている。しかし、棟世の経歴には不明な点が多く、その生涯をたどるのは極めて困難である。2人の間には、上東門院小馬命婦が誕生した。

 紫式部の『紫式部日記』には、清少納言について書かれている。これを信じるならば、清少納言は非常に気位が高く、ちょっと面倒くさそうな女性という印象を受ける。一方、鎌倉時代に成立した『無名草子』、『十訓抄』において、清少納言は高く評価されている。

 前者は同時代の史料であるが、それはあくまで紫式部の主観にすぎない。後者は、後世に成った物語であるので、どこまで信が置けるのか不明である。

 いずれにしても、清少納言の実像を探るのは困難で、ましてや夫の則光と離婚した理由を探るのも難しい。夫婦のことは、夫婦にしかわからないということか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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