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【深掘り「鎌倉殿の13人」】琵琶だけでない。重要だった結城朝光という人物

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
結城朝光の本拠だった栃木県結城市。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では、結城朝光が登場していた。しかし、結城朝光をさほど取り上げていなかったので、詳しく掘り下げてみよう。

■結城朝光とは

 仁安3年(1168)、結城朝光は小山政光の子として誕生した。小山氏は、下野国小山(栃木県小山市)に本拠を置いた東国の名族である。朝光は、下総結城氏の祖でもあった。

 朝光の母は、八田宗綱の娘の寒河尼である。寒河尼が頼朝の乳母を務めていたことは、誠に幸運なことだった。治承4年(1180)、頼朝が「打倒平家」の兵を挙げると、朝光の烏帽子親を務めたのである。

 頼朝が朝光の烏帽子親を務めたのは寒河尼の縁であり、以後の朝光の躍進を決定づけた。養和元年(1181)、朝光は頼朝の寝所を警護する役に任じられた。朝光がいかに頼朝から信頼されていたかの証だろう。

■源平争乱時の朝光

 寿永2年(1183)、朝光は父の政光らとともに、反頼朝の兵を挙げた志田義広、足利忠綱の軍勢を打ち破った。開戦前、頼朝が鶴岡八幡宮に戦勝祈願をした際、朝光は御剣役という重要な役を与えられ、「頼朝勝利」という神託を得た。これにより、頼朝軍には勢いがついたのは言うまでもない。

 以後、朝光は御剣役を10回も務め(御家人で最多)、このときの軍功により、下総国結城郡の地頭職を与えられた。結城郡は、現在の茨城県結城市、同古河市の一部、同八千代町の一部を含む広大な地域である。

 朝光は平家討伐の軍勢に加わり、大いに軍功を挙げた。その後、源義経が頼朝と対立したのは、有名な話である。義経が頼朝に弁解すべく東国に下向した際、面会が叶わないことを義経に通告したのは、この朝光だった。朝光は奥州合戦でも戦功を挙げ、白河郡を恩賞として与えられた。

■むすび

 このように、朝光は頼朝治世下では順調だったが、建久10年(1199)1月に頼朝が亡くなると、たちまち窮地に追い込まれた。強力な後ろ盾を失ったのだ。

 同年の秋、朝光は亡き頼朝の思い出を語り、「忠臣は二君に仕えずというのだから、頼朝の死後は出家すべきだった」と述べ、あわせて世情が穏やかではない旨の発言をした。この発言は考えようによっては、「頼家には仕えたくない」とも取れる発言なので問題視された。

 朝光の発言を問題視したのが、梶原景時だった。この点についてはドラマの28回目の内容にかかわるので、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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