【深掘り「鎌倉殿の13人」】ドラマの最後に登場した源頼家の子・善哉とは何者か
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の32回目では、最後に源頼家の子・善哉が登場した。いったい善哉とは何者なのか、詳しく掘り下げてみよう。
■善哉とは
ドラマの最後になって、源頼家の子・善哉(ぜんざい)が登場した。草笛光子さんが演じる比企尼が、父の頼家や比企一族の仇を取るべく、北条一族を討つように語りかけていた。
善哉が頼家の子として誕生したのは、正治2年(1200)のことである。しかし、母は史料によって異なっており、足助重長の娘、比企能員の娘、三浦義澄の娘などが候補である。おそらくドラマでは、比企能員の娘説を採用したのだろう。
頼家の嫡男は一幡だが、善哉は史料によって、次男あるいは三男という説がある。母や生まれた順番は諸説あり、もはや確かめようがないのが実情である。
元久元年(1204)7月、伊豆の修禅寺に幽閉された頼家は、北条義時によって殺害された。兄の一幡もすでに亡くなっていたので、善哉は孤独の身となった。
■その後の善哉
いかに頼家の子とはいえ、善哉は一幡のように殺害されることはなかった。建永元年(1206)6月、善哉は祖母の北条政子の邸宅で着袴の儀を執り行った。
着袴の儀とは、文字どおり袴を着用するのだが、それは幼児から成長したことを意味し、7歳前後に行われた。このとき善哉は、7歳になっていた。
同年10月、善哉は政子の取り計らいによって、頼家の弟・実朝の猶子になった。一般的に猶子とは、家督や財産の継承を前提としない親子関係のことを意味する。
建暦元年(1211)9月、善哉は出家し、園城寺(滋賀県大津市)に入った。その後、公暁と名乗ったのである。建保5年(1217)6月、公暁は鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮寺別当になった。僧侶になったとはいえ、公暁は幸運だったのだ。
■まとめ
公暁が鶴岡八幡宮寺別当になったのは、政子の強い意向が働いたといわれている。政子からすれば、公暁を殺さなくても、僧侶にすれば十分に事足りると思ったのだろう。しかし、公暁はのちに大事件を起こすのである。