上皇ご夫妻ゆかりの「軽井沢」 貴重な写真とともに歩く
8月22日、上皇ご夫妻がご静養のため、長野県軽井沢町に到着された。お二人にとって軽井沢は、66年前の夏にテニス大会で初めて出会い、思い出が詰まった特別な場所でもある。
軽井沢は古くは外国人の避暑地であったが、今では多くの日本人が訪れ、誰もが憧れるリゾート地となった。筆者はひと足前に軽井沢を訪れ、上皇さまと美智子さまのエピソードをたどった。
◆出会いの場所 「軽井沢会テニスコート」
観光客でにぎわう旧軽銀座通りを奥へ進み、右手に軽井沢観光会館の建物が見えたら、その手前の脇道を右折。この道こそが、上皇ご夫妻も通われたであろう、通称「テニスコート通り」だ。
避暑地の軽井沢とはいえ、真昼の日差しは刺すように容赦なく降り注ぐものの、100メートルも歩かずに、上皇ご夫妻が出会われた思い出の「軽井沢会テニスコート」に到着する。
1892年(明治25年)の開場というから、実に131年の歴史を誇る、由緒ある会員制のテニスクラブ。13面のコートを有する広大な敷地と、1930年(昭和5年)に建てられた、和洋折衷の赤い屋根が美しいクラブハウスが印象的だ。
今も軽井沢会の会員の人たちがテニスに興じているこの場所から、皇室の新たな歴史が育まれていったと思うと、なんとも感慨深い。
◆上皇さまの珍しい一瞬を撮影した写真
筆者の手元に、1958年(昭和33年)8月に上皇さまのテニス仲間が撮影した、一枚の写真がある。北軽井沢の名所として知られる「鬼押し出し」へ出かけられた時のものだ。
そのテニス仲間の方から聞いた話によると、この日はテニスをする予定だったが、雨が降っていたために中止となり、急きょここへピクニックに出掛けたのだという。
鬼押し出しは、浅間山の噴火で流れ出て固まった溶岩が、鬼が暴れて岩を押し出したようにみえることから、この名称になったと言われている。
ゴツゴツした岩の上を歩く時も、当時皇太子だった上皇さまはスーツをお召しになり、革靴を履いていらっしゃったことが、写真から分かる。お立場上、いついかなる時も対応できるよう、常にフォーマルな格好をされていた。
スーツ姿で岩の上をひょいひょいと上手に渡って行かれる上皇さまを見て、テニス仲間の方は「これは珍しいぞ」と思い、その瞬間をカメラに収めたのだという。
現在、鬼押し出しを訪ねてみると、旅行にやって来た家族連れで賑わっていた。上皇さまが訪問された65年前は、険しい岩の上を歩いていらっしゃったが、今では観光客用の道がアスファルトで舗装されて、誰でも安心して楽しめるようになっていた。
ここから見える大小の溶岩が織りなす景色は、世界三大奇勝の一つに数えられるとか。岩塊がさまざまな形をしており、ゴリラやゾウ、魚、犬、モアイ像、人の顔などに見える岩もある。変わった岩を見つけて、これは何に似ていると想像するだけで楽しむことができるだろう。
以前、雅子さまのご学友に取材した際、小学校時代の夏休み、一緒に軽井沢へ出掛けて鬼押し出しに行ったという話を聞いたことがある。鬼押し出し園で雅子さまと、記念メダルにスタンプを押したそうだ。
昔は全国の観光地で刻印できる記念メダルの販売機を置いており、お土産に買い求めたものだった。ここは、雅子さまにとっても思い出の場所なのだ。
◆美智子さまと軽井沢町を結ぶ花
続いて、美智子さまと繋がりがあるものを求めて訪れたのは、しなの鉄道「中軽井沢駅」から歩いて10分のところにある軽井沢病院。この病院の敷地内に、美智子さまの軽井沢への思いを感じられる歌碑があるという。
その歌碑は、訪れた人の目に留まるよう、駐車場の前に建立されていた。そこに刻まれていた、美智子さまが平成14年に詠まれたお歌は…
「かの町の 野にもとめ見し 夕すげの 月の色して 咲きゐたりしが」
「かの町」とは軽井沢町のことで、ユウスゲの花がまるで月の光のように淡く輝いていたことを詠まれたものだ。
ユウスゲは7月下旬から8月にかけて咲き、軽井沢を象徴する花。実はこの花にまつわる、美智子さまのエピソードがある。
上皇ご夫妻が軽井沢を訪れた時、この町でユウスゲが少なくなったと聞き、美智子さまは皇居で採れた種を軽井沢町植物園に贈られた。それがきっかけとなり、再び軽井沢の町にユウスゲの花が咲くようになった。
美智子さまが終戦を迎えられたのも、軽井沢の地だった。筆者が訪れた時、お歌を刻んだ石には、白い雲が浮かぶ青空が映っていた。歌碑の前に立つと、この平和と清々しい日々がいつまでも続いてほしいという気持ちになった。
軽井沢を訪れたら、上皇ご夫妻のゆかりの場所で思いを巡らせてみてはいかがだろうか。