なぜ日本人は新たな戦争を受け入れたのか〜12月8日まで映像ニュースが伝えたこと〜 #戦争の記憶
太平洋戦争開戦78年
1941年12月8日、日本陸軍がマレー半島に上陸、その後海軍機動部隊がハワイ・真珠湾を急襲して太平洋戦争が始まった。3年8ヶ月間に及んだ戦争で日本人310万人、アジア太平洋地域全体では2000万もの命が失われたとされる。
太平洋戦争直前、日本は大陸に侵攻し日中戦争を戦っていた。南京陥落後、中国国民政府を率いる蒋介石は内陸部の重慶に首都を移して徹底抗戦を続け、毛沢東率いる八路軍が国共合作によって華北を中心に対日ゲリラ戦を展開し、戦況は膠着していた。
1945年12月8日、そうした戦況にもかかわらず日本は、アメリカ、イギリス、オランダなどと戦端を開いた。しかも、国民の多くがその開戦を熱狂的に受け入れた。
開戦前、戦争終結の見通しが見えないまま大陸での戦死者は増え続け、物資は統制されて暮らしは彩りを失い生活の息苦しさは高まっていた。それなのになぜ人々は新たな、しかも複数の強国を相手にする戦争を支持したのか。
太平洋戦争に至るまでを、メディア、特に映像のニュースは何をどのように伝えていたのかを見つめると、日本人がどのように戦争を受け止めていたのかを探れないか、太平洋戦争への道を敷いていく上でメディアがどのような役割を演じたのか、一端を知ることができるのではないか。
そこで、現在ネットで閲覧できる当時のニュース映画、「日本ニュース」をデジタルアーカイブ 、「NHK戦争証言アーカイブス」で一覧視聴してみた。
映像ニュースは、人々が戦争を受け入れるために何をしたのか
開戦当時、まだテレビ放送は始まっていない(NHKのテレビ放送開始は1953年)。人々が唯一国内外の出来事を映像で知ることができたのは映画館で上映された「日本ニュース」である。
「日本ニュース」は太平洋戦争の直前の1940年から戦中、戦後にかけて映画館で上映されていた。
1940年6月に第1号の上映が始まり、戦争が終結した昭和20年夏までは、戦争遂行と国家総動員のためのプロパガンダを目的にした国策映画である。軍官当局の検閲を受け、あるいは当局指導のもとで制作されていた。
当時、人々が接していたメディアはラジオや新聞、雑誌などがあり、ニュース映画はそのひとつだったが、唯一の動画であり、映像の持つ訴求力で人々の意識に強く働きかけたはずである。
ここでは、1940年6月から太平洋戦争前夜までの18ヶ月間(第1号から79号まで)、「日本ニュース」が何をどのように伝えたのかを見る。日中戦争に加えて新たな戦争へ向かって行く激動の1年半である。
太平洋戦争の1年前というのは、泥沼化した日中戦争を打開しようと日本は空陸の大攻勢をかけながらも共産党軍も加わった大規模な反攻もあり、混乱に陥っていた時期である。
一方、欧州戦線では、ドイツがフランスを屈服させ、さらにソビエトへ侵攻。ドイツと同盟を結んだ日本は、フランスの支配力が空白化するとの見通しから北部仏印(現在のベトナム北部)へと進駐を進める。米英は強く反発、日本への経済制裁を強化した。
そして、1941年4月「日米交渉」がスタートする。その間にアメリカの神経を逆なでするように日本はさらに南部仏印へ軍事進駐を行い、米英による石油の禁輸など経済制裁はいっそう強化され、孤立化した日本は太平洋戦争へと突き進む。
この18ヶ月間の「日本ニュース」は、収束のめどが立たない日中戦争を戦いながら日本がいったい何を選択しようとするのかを映し出している。同時に、権力側のコントロール(検閲や指導)を受けて制作されているので、新たな戦争を受け入れる環境を整える役割を果たした。
「日本ニュース」は、朝日、毎日(大阪毎日・東京日日)、読売、同盟といった大手新聞・通信社のニュース映画部門が統合されたもの、当局による生フィルムの統制と検閲を容易にするための統合だった。「日本ニュース」は1940年6月に上映を開始した。前年の1939年に施行された「映画法」によって全ての映画館で上映することが強制された。
1941年1年間の日本の映画館入場者は、延べ5億人。国民一人当たり年に7回見た計算になる。
新聞、ラジオ、ニュース映画といった報道メディアは、1931年の満州事変以降、軍部の膨張と右派勢力の圧迫で軍と一体化した報道一色になる。元々日本の新聞は戦争ごとに大きく部数を伸ばしていて、反軍的な報道をすれば、右翼と軍が一体となって不買運動を起こす状況であった。新聞各社のニュース映画部門も新聞と同様の厳しい当局の検閲と指導の元でしか制作ができなかった。
そうした制限下でどのようなニュースを制作していたのだろうか。
現在と変わらないニュース制作手法
この頃すでに、現在のテレビニュースと変わりのない伝え方が確立されていることがわかる。映像には、字幕、ナレーション、音楽、効果音がつけられ、インタビューや演説などは音声をしっかり聞かせる演出になっている。編集(カットの長さやアップとロング、ミドルサイズの映像の組み合わせ方)も違和感はない。実際の出来事から公開までは早ければ2〜3日で、中国戦線もフィルムを航空機で輸送、短時日にポストプロダクション(編集から収録までの作業)されている。
ナレーションの大きな特徴は、観客、制作者、軍部の一体感を打ち出している点だ。自国のことは「我が国」や「我々」、「我が軍」と表現し、航空部隊は「荒鷲」、海軍なら「海鷲」、陸軍航空部隊は「陸鷲」と表現し、常に力強さを打ち出している。戦闘シーンには勇壮な音楽がつけられ、砲弾の炸裂音も強調される。ナレーションでも「赫赫たる戦果」、「神速果敢の我が攻撃」、「頑敵を覆滅し」など漢語調の威勢の良い言葉で「強さ」を強調する。
勝ち続けても終わらない戦争
この18ヶ月間で最も多く取り上げられたニュース項目は、もちろん「日中戦争」だ。1937年に始まり、日本は100万もの将兵を送り込んでいた。ほとんどの日本人は、自分の家族や友人、あるいは職場の同僚などが大陸に送り込まれていたはずだ。
「日本ニュース」では200人もの取材陣を中国戦線に送り込み、ほぼ毎号陸海軍の戦いぶりを伝えた。日中戦争に関わる項目は77本で、そのうち地上戦が29本、空襲が22本である。多い時には複数項目で戦闘が取り上げられる号がある。
1940年9月3日の13号では、「下川上陸」、「桂林爆撃」と地上戦に続いて空襲について伝えている。
当時は、一週間経つと次の号が公開されている。
デジタルアーカイブによってまとめてこのニュースを見て気づいたのは、日中戦争の戦闘のニュースがワンパターンの構成で制作されていることであった。定型化していたのだ。
例えば、4号の「皇軍宜昌占領重慶前衛の牙城潰ゆ」では、敵前上陸、城内突入、激しい戦闘、逃げ去る中国兵、掲げられる日の丸という構成だ。他の号を見ても、地上戦を伝えるニュースのほとんどは地名が異なるだけで、ほぼこの構成に収まる。最後のカットが万歳の場合も多い。
空襲についてのニュースも同様。攻撃隊の離陸〜爆撃して敵基地などを粉砕〜全機無事帰還である。ニュースによっては、襲ってくる中国軍戦闘機を撃退する場面もある。
もう一点わかったことは、日本軍の被害については全く言及していないことである。さらに、彼我の死傷者や避難民の姿も一切出てこない。日本軍も10万以上、中国は軍民合わせると数十万という死者が出ているにも関わらず、死体は映らない。生きている中国兵の姿も全ニュースのうち、2本に出てくるのみである。
上記にあるように、空襲のニュースは、最後はすべて全機無事帰還で終わっているが、実際には、陸海軍機ともにかなりの数が失われている。陸軍の爆撃機に同乗して撮影にあたったカメラマンの川口和男は、1940年6月の重慶への爆撃行では陸上攻撃機が二機撃墜されたと証言している。
がんじがらめの検閲と指導
では、どうしてこのようなニュースになるのか。それは、当局の検閲と指導に従わなければならない構造にニュース制作者側ががんじがらめになっていたからだ。
陸海軍の作戦に関するニュースは、撮影対象も限られた上に、撮影した素材全てを陸海軍報道部に提出し、許された映像だけを編集することができた。撮影対象などを当局に強要されることもあった。編集が終わり、ナレーションがつけられたものは、内務省と情報局に提出し検閲を受け、さらに陸海軍報道部も重ねて検閲した。完成してもナレーションのトーンが暗いだの、明るいだのと文句がつけられて撮り直しも行われたという。皇室に関するニュースは、宮内省も検閲に加わった。
日中戦争についてのニュースから国民に伝わったのは、勇壮・優勢な日本軍が中国軍を蹴散らして次々に占領地を広げ、中国国民政府の拠点である重慶を圧迫し続けているということである。
しかし、どうだろうか、毎週同じような勝ち続けることを伝えるニュースは何を人々にもたらすだろうか。どんなに戦闘に勝利しても“終わらない”戦争ということではないか。上陸、突撃、激しい戦闘、敵の潰走、上がる日章旗、既視感を覚えるニュースが続く。
ニュースを見れば見るほど、「日中戦争」が行き詰まり泥沼化していることを否が応でも感じさせたはずだ。
日中戦争さなかに新たな戦争を始めた日本
勝利を伝え続けるこのニュースが上映された1940年頃は、長引く戦争と戦死者の増大、物資の不足に、日本人は先行きを暗く感じていた。
1941年12月の開戦の日を迎えた著名人の書き残した文章に直前までの重苦しい空気が読み取れる。
戦後、東大総長になった南原繁は、太平洋戦争開戦時について記している。「支那事変(日中戦争)というものは、はっきりとした情報があたえられていないにもかかわらず、憂鬱な、グルーミーな感じだったのに、それがなにかすっきりしたような、この戦争なら死んでもいいやという気持になりましたね」。
フランス文学研究者の桑原武夫は、「暗雲が晴れた。スーッとしたような気持」と書き、文芸評論家の河上徹太郎も「今本当に心からカラッとした気持でいられる」と記している。
日本軍の被害や死体を見せないなどは、検閲や当局の「国民に対して厭戦気分を与えないため」という指導によるものだが、その制限の中で制作されることになったがゆえに、一方的な勝利を伝える画一的な表現の連続となり、皮肉なことに「勝利を続けても終わらない戦争」というイメージを観た人々に与えたのである。
だからこそ、その鬱屈した気分を打ち払うようなイベント(米英との戦争)を人々は求めたのかもしれない。
日本ニュースは“フェイク”だったのか
1940年頃、映像ニュースの話法はすでに確立されていて、ニュース制作者は、撮影、編集から音楽、効果音、ナレーション、インタビューといった音声表現を巧みに組み合わせ、視聴する人々の心に強く働きかける手法を持っていたのだ。
それだけに、事物を意図したように効果的に伝えることができた。ただ、当局の指導と検閲の中にとどまっていたために、1カットずつの映像には事実が映し出されていたにせよ、出来上がったニュースは権力者が意図した方向に人々を誘導しようとした、いわばフェイクニュースだったと言えるだろう。
現在、ネットに出てくる映像コンテンツが内容の真偽が確認されないまま拡散され、時にはフェイクとして人々に届く。
「日本ニュース」を見るとき、今を生きる私たちは何を意識すべきか。まず、メディアの送り出すコンテンツが、事実・真実を伝えているのかを見極めるリテラシーを身につけることが求められる。
さらに、権力の影響を排除しメディアの自律的な制作環境を私たち市民が主体となって確保することも欠かせない。この「日本ニュース」は、過去を知るためだけでなくメディアの今と未来を考える上で重要なコンテンツになりうるはずだ。