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【光る君へ】藤原道長を支えた「道長四天王」は、どういう面々だったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
藤原道長。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」は、平安貴族の世界を描くのがメインであり、あまり武士が登場しない。しかし、「道長四天王」と称される面々が存在したので、紹介することにしよう。なお、「道長四天王」とは、あくまで後世に名付けられたものである。

◎源頼信(968~1048)

 頼信は源満仲の三男であり、河内国古市郷壷井(大阪府羽曳野市)を本拠としたので河内源氏の祖とされる。兄の頼光とともに摂関家に仕え、特に藤原道長から重用された。

 頼信は治部権少輔、左馬権頭などの京官のほか、河内、伊勢、陸奥、美濃、石見、上野、常陸などの受領を歴任したことで知られている。

 長元元年(1028)に平忠常の乱が勃発すると、頼信はその鎮圧を命じられた。忠常は頼信と戦うことなく、呆気なく降参したといわれる。頼信の武勇は、子孫にも引き継がれたのである。

◎平維衡(生没年不詳)

 維衡は、平将門の乱を鎮圧した貞盛の子で、伊勢平氏の祖でもある。上総、常陸、下野など東国で受領を歴任した。その後、維衡は伊勢に進出するが、長徳4年(998)に同族の平致頼と抗争を繰り広げた。

 その結果、朝廷は2人を京都に召喚し、維衡を淡路への流罪とした。寛弘3年(1006)、維衡は伊勢守に任じられたが、藤原道長が事件を起こしたことを理由に反対し、解任されたこともあった。

◎平致頼(?~1011)

 致頼は、公雅の子である。やがて、致頼は伊勢に進出したが、先述のとおり維衡と抗争を繰り広げた。維衡は淡路に流罪となったが、致頼は維衡より重い隠岐へ流されることになった。そのときには、従五位下の位階も剥奪されたという。

 説話集『古事談』には、子の致経による致頼の評価が書かれており、致頼は鄙びたところがあり、大雑把な性格だったという。とはいえ、『続本朝往生伝』では、「天下之一物」と高く評価された武将でもある。

◎藤原保昌(958~1036)

 保昌は致忠の子であり、摂津国平井(兵庫県宝塚市)に居を定めたので、平井保昌とも称される。保昌は武勇に優れる一方で、肥前、大和、摂津などの受領を歴任した。

 『今昔物語』には、保昌が盗賊の袴垂保輔を恐れさせた逸話が紹介されている。その優れた武勇は、源頼光とともに鬼退治を行った酒呑童子の説話にもなった。なお、保昌の妻は、歌人の和泉式部である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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