樋口尚文の千夜千本 第173夜 「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介監督)
繊細な地震計のように人生のさざなみをとらえる
こんなタイトルの作品だが、特にクルマが移動することに格別の意味が持たされているという気はしなかった。むしろ、クルマが移動したところで何かが変わるわけでもなく、とにかく人はクルマに乗り続けているという事実だけがある、村上春樹的なニュアンスで言えば「そういうものだ」という感覚が伝わってきた。
演出家と演技者を兼ねる主人公の家福(西島秀俊)は思い出のクルマであるSAAB900を長年にわたって愛用し、雇われドライバーのみさき(三浦透子)とのやりとりの舞台もその車内であることが多い。しかし、重要なのはクルマが走行することよりも、クルマに乗っているということなのではなかろうか。というのも、実際に物体としてのクルマに乗っているのは主にこの二人だが、家福をめぐる人々もすべて車上の人なのではないかという気がしてくるのである。
それは概念においてではなく、たとえば家福と同衾している時に台詞を編み出す妻の音(霧島れいか)はホットハッチに、家福とともに広島で矩形のテーブルに整然と座してリハーサルする俳優たちはノッチバックセダンに、家福とプライベートな接触をもとめてリハ後の止まり木に誘う高槻(岡田将生)はカムテールに、不意に家福が招かれるコン・ユンス宅の食卓はファストバックに、「ワーニャ伯父さん」が演じられる舞台で机を囲む家福とイ・ユナ(パク・ユリム)はドロップヘッドクーペに……乗っているかに幻視したのだった。
そして、それらのクルマのドライブにあたって重要なのは絵に描いたようなアクシデントではなく、たとえばSAAB900の後席にいた家福がいつの間にか助手席にいたり、リハの席に高槻とジャニス・チャン(ソニア・ユアン)が不在であったりといった席間における「微動」「微差」であって、それを繊細な地震計のようにとらえることがこの作品の面白さの源泉だという気がする。濱口竜介は、その「微動」「微差」を何かの喩ではなく、あくまで具体的な「音=声」と「画=表情」によってのみ描き出そうと試みる。本物の自動車であれ会議室であれ家庭の食卓であれバーのカウンターであれ、人々はさまざまなクルマにひとり籠り、または乗り合わせながら、「声」と「表情」の微妙な移ろいを表現する。
その映画的な純度高き人生の「車種」を乗り換えながら、濱口の地震計にキャッチされた「微動」「微差」の醸すものの直截な面白さ、スリリングさゆえ、2時間59分の本作は5時間17分の『ハッピーアワー』がそうであったように全篇画面にくぎ付けになる。一部の人物については大事件と言っても差し支えない出来事に見まわれるが、その衝撃すら日常のなかに静かに回収され、人々は劇中のジャン・ルノワール式本読みそのままにごく淡々とそれぞれのクルマに乗り、静かに語り、その反復を続ける。非映画的なこみいった設定もいわくありげな抽象性も念入りに濾過した、ひたすら目に見え聞こえてくる人生のさざなみが、ここまで面白いとは。あからさまな感情表現を禁じた西島秀俊の演技は、まさにその張り付いたような表情の「微動」が観る者を凝視に駆り立て、三浦透子、岡田将生はじめ粒よりの演技陣のコンダクターになっていた。