Yahoo!ニュース

「玉音放送」台湾ではどのように聞かれたのか——終戦記念日に考えてほしい台湾統治のこと

田中美帆台湾ルポライター、翻訳家
「終戦の詔書」に連ねられた終戦内閣の署名(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)

幕引きの舞台裏

 ……耐え難きを耐え 忍び難きを忍び……

 玉音放送——1945年8月15日の帝国日本の幕引きを告げる号令である。

 この号令がどのようにして国民に告げるに至ったかを記したのが、今年1月12日に亡くなった作家・半藤一利著『日本のいちばん長い日』だ。後年、自身を「歴史探偵」と称し、ベストセラーになった『昭和史』などさまざまな史実を伝えた半藤氏だが、1965年に刊行された本書は当初、ジャーナリストの大宅壮一編集として世に出た。1967年に岡本喜八監督によって同タイトルで映画化され、2015年にも原田眞人監督が新たに撮っている。

 原作は、1945年8月14日の正午から翌15日の正午の24時間、刻々と時を追いながら、鈴木貫太郎内閣の閣議や宮城で起きた出来事を再現したノンフィクションである。大量の史料と関係者への取材を重ね、8月9日の御前会議で昭和天皇が聖断をくだし、国体護持を案じた陸軍将校たちが命令と偽って決起を促し、玉音放送を阻止すべく抵抗を続けた様子が書かれる。

 録音盤に記録された玉音放送は、将校たちに狙われたものの、偶然と関係者の機転が重なって難を逃れ、無事に放送が実現された。

玉音放送へ導いた元台湾民政長官

 同書で、ポツダム宣言受諾を決定した8月9日の御前会議の様子を記者団に伝えた人物として登場するのが、情報局総裁だった下村宏である。2015年版映画では、録音盤の在処を聞き出そうとする将校たちに囲まれ、詰め寄られていた人物だ。

 下村は情報局総裁になる以前、台湾にいた時期がある。下村が渡台した1915(大正4)年から1921年にかけては、1895(明治28)年に始まった日本による台湾統治がひとつの転換期にあった。それまで総督の任はすべて武官があたっていたが、それが文官へと切り替わる時期だった。下村は、安東貞美、明石元二郎という2人の陸軍出身総督に続いて、逓信大臣を務めていた田健治郎という3人の台湾総督の下で民政長官、改称して総務長官なる役職に就いた。

 台湾総督府民政長官というと、総督に次ぐ役職である。7人目となったその職における評価として、次のような記録がある。

 第7代の民政長官下村宏氏は内田民政長官と同様、逓信省畑のため、貯金局長より転任し来たりたる人にして、その人もまた内田氏と同じく関門において大気炎を吐きて記者連を煙に巻きたるも、その在職8年間における成績は第一共進会、第二台湾電力会社の創立、嘉南大圳の事業にして、関門の大気炎に対しては少しく物足らざる感がある。(出典:「歴代の民政長官」『台湾警察協会雑誌』1928年)

 なかなか手厳しいが、とはいえ電力や水力という社会的インフラの整備は大事業だ。総務長官の任を辞して台湾から日本へ戻ったあと、下村は役人そのものを辞して朝日新聞社へ入社した。そして大日本体育協会会長に就任し、幻となった東京オリンピック開催の実現に向けて動いた。この時の五輪は、戦局によって諸外国の選手派遣拒否を表明、政府が開催権を返上している。その後下村は1943(昭和18)年に日本放送協会会長に就任し、同時期に情報局総裁兼国務大臣となり、玉音放送の実現にかかわることになる。

台湾におけるラジオ放送

 玉音放送を受け入れることになる台湾のラジオ放送は、下村が台湾を離れてから4年後にスタートしている。

 その最初は、1925年6月15日午前9時から行われた試験放送だ。台湾では、6月17日が始政記念日、つまり日本統治の始まった日を記念して、各種記念行事が行われた。記念行事といっても、毎年盛大にやったわけではなく、台湾統治が長期化するに及んで、徐々に規模が拡大していった。

 ラジオ放送の始まった1925年は「始政30周年」という節目にあたり、展覧会や花火、踊りに音楽会と各地でさまざまな記念イベントが行われた。ラジオ放送はその晴れの舞台に登場した。といっても、この日の天気は雨だったのだが。

 11時15分、「こちらは始政30周年記念展覧会第3会場の放送室であります。これからラジオの放送を開始します」という宣言から始まった放送は、各地のニュースのあと、当時総務長官の後藤文夫が講演し、演奏、プログラムの読み上げで終了。午後には再び各種楽器の演奏、途中で天気予報をはさんで夜9時まで続いた。また、この日の放送は、台北だけでなく、宜蘭、淡水、新竹などにも伝えられ、多くの人が聞いたという。

 当初、ラジオを聞くことのできた圧倒的多数は日本人だった。1928年の調査では日本人6,357戸に対し、台湾人1,507戸と4倍以上の開きがあった。それが1944年の調査では、全聴取戸数10万戸弱のうち、日本人は約5万5,000戸、台湾人は約4万4,000戸となった。

 この増加について、当初は日本語だけで始められたラジオ放送が、日中戦争の勃発によって戦況理解へのニーズが高まり、さらに台湾語の放送が始まったことで、台湾人の聴取者が増加したとされる。ただし、1943年当時台湾の人口が約660万人、総戸数は約116万戸だったことから換算すると、月額で支払いの発生するラジオの聴取は簡単ではなく、富裕層に限られていたと思われる。

 また、当時の技術では日本からの放送中継はかなり難しいものがあったようだ。ものの本には「台湾近海は夏期空電甚だしく、従来毎年4月より10月までは中継不可能であったが、最近短波中継の途が開かれて以来、夏冬を通じて4時間ないし5時間近くも毎日中継放送をやり、臨時中継もたびたび行って聴取者に大いに喜ばれている」とある(「台湾の通信」1935年)。

 ところで現在、台湾と日本の標準時には1時間の時差がある。玉音放送が放送された日本の正午は、台湾では午前11時。この時差はどうなっていたのだろう。1937(昭和12)年11月27日の官報にこんな告示が出ている。

 台湾の標準時は昭和12年10月1日より中央標準時により、昭和12年9月30日午後11時をもって昭和12年10月1日午前0時とす。

 1937年以降の台湾は日本と同じ時刻だった、つまり、玉音放送も時差なく放送されたということだ。

37分半に渡る放送

 今、玉音放送を一度聞いただけではなかなか内容が頭に入ってこない。何度読んでも、当時との基礎教養の違いを思い知る。前日、重大な放送があるから正午の放送を聞くように、という予告が行われ、それが玉音放送だということも、伝えられていた。天皇による放送はほとんど例がない。いわば相当なフリが効いていたと受け止められる。

 そして当日。玉音放送を含めた正午から37分半に渡る放送は、具体的にどのような順で放送されたのか。『日本のいちばん長い日』から抜粋要約して紹介する。

 正午の時報。

 放送員「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴取者のみなさまご起立願います」

 下村「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くもおんみずから大詔を宣らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」

 君が代。

 昭和天皇「終戦の詔書」の録音が流れる。

 君が代。

 下村「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」

 放送員「畏くも天皇陛下に於かせられましては万世の為に太平を開かんと思召されきのふ政府をして米英支蘇四国に対しポツダム宣言を受諾する旨通告せしめられました。畏くも天皇陛下におかせられましては同時に詔書を煥発あらせられ帝国が四ヶ国の共同宣言を受諾するの已むなきに至つた御宣示あらせられけふ正午畏き大御心より詔書を御放送あらせられました。この未曾有の御ことは拝察するだに畏き極みであり一億ひとしく感泣いたしました。我々臣民はただただ詔書の御旨を必謹誓つて国体の護持と民族の名誉保持のため滅私の奉公を誓ひ奉る次第でございます。謹んで詔書を奉読いたします」

 放送員「詔書」を再度朗読。

 放送員が内閣告諭を朗読。さらに、聖断の経過、交換外交文書の要旨、ポツダム宣言の内容、カイロ宣言の内容、8月9日から14日までの重要会議の開催経過、受諾通告の経過、平和再建の詔書煥発を伝える。

(『日本のいちばん長い日』をもとに筆者整理)

 終戦の詔書だけが伝えられたわけではなく、アナウンサーによる補足、さらには経過の説明なども伝えられていた。こういう手順を踏んだことで、多くの人が終戦を理解した。

台湾人はどう聞いたのか

 台湾で玉音放送を聴いていた人たちは、どのように受け止めたのだろう。

 1920年代の台湾では、議会を設置する運動が盛んになった。その運動のリーダーとして先陣を切っていたのが、林献堂である。彼の8月15日の日記には、こう書かれている。

 天皇が15日12時に自ら放送で、世界平和と日本民族の将来の発展のため、ポツダム宣言を受諾し、臣民を守りたいと述べた。ああ! 50年に渡って武力で築かれた世は、ふたたび武力で失われたのだ。(灌園先生日記より。拙訳)

 一方、東京で医学を学んだ医師でもあり作家でもあった呉新栄は、日記にこう記している。

 日本降伏。 昨夕、公会堂に於いて供出労働者の身体検査をし、今朝、下営保甲事務所においてマラリア患者の採血検鏡と〔を〕なせり。 下営より帰途、謝得宜に会えば、正午に重大放送ありときく。佳里に帰りてラヂオをきこうとすれば、電気来らず。晩に至りて鄭国津君愴惶として来て、重大放送の内容を語る。先に徐清吉、黄朝篇両君に与えたる予言の的中を自ら驚く。よって、鄭君と二人で疎開先の鄭国湞、謝得宜両君を訪ねて談話す。(呉新栄日記より。表記は筆者修正)

 日本統治を総括した記述の林に対し、呉は放送自体は聴いていなかったものの、事前にこうなることを公言していたことが読み取れる。

放送局のその後

 台湾におけるラジオ放送の起点となった台北放送局の建物は、現在も残されている。その名を「台北二二八紀念館」という。

記念館は二二八和平公園の中にある。垂れ幕と植栽でわかりにくいが、回廊の柱が弧を描いているのが印象的だ(撮影筆者)
記念館は二二八和平公園の中にある。垂れ幕と植栽でわかりにくいが、回廊の柱が弧を描いているのが印象的だ(撮影筆者)

 名前の由来となった事件は1947年2月27日、台北で起きた。終戦によって台湾の為政者は日本から中華民国政府となっていた。闇タバコの販売で生計を立てていた人が取締官に殴られて流血。周囲にいた人たちが止めに入り、もみ合いは拡大。そして取締官が発砲した弾に当たって死者まで出た。にもかかわらず、取締官が処罰されなかった。この事態が、翌日28日以降の抗議行動につながっていく。

 そうでなくとも、1946年に日本が引き揚げたあとの台湾には、はち切れそうなほどの不満が溜まっていた。急激なインフレに失業、そして為政者としてやってきた軍や警官の規律の無さ——日本の抑圧から解放されるはずが、また新たな政府による抑圧が始まった。怒りは拡大し、ラジオ局を通じて全島へ事件が伝えられた。各地で民衆と軍や警官が衝突し、たくさんの人が亡くなった。今もなお、正確な死者の数はわからないままだ。

 76年前、ラジオは帝国日本の幕引きを担った。日本が戦争という人災を放棄して76年が経つ。ラジオからテレビを経てインターネットへと取って代わった今、発信の量は膨大に増えた。にもかかわらず、他国を巻き込み、命を軽々しく扱う様は、いつかとひどく似ている気がしてならない。

台湾ルポライター、翻訳家

1973年愛媛県生まれ。大学卒業後、出版社で編集者として勤務。2013年に退職して台湾に語学留学へ。1年で帰国する予定が、翌年うっかり台湾人と国際結婚。上阪徹のブックライター塾3期修了。2017年からYahoo!ニュースエキスパートオーサー。2021年台湾師範大学台湾史研究所(修士課程)修了。訳書『高雄港の娘』(陳柔縉著、春秋社アジア文芸ライブラリー)。

田中美帆の最近の記事