大事なのは縦横の視点——『中国ぎらいのための中国史』の安田峰俊さんに聞く対象との距離の取り方
中国ぎらいと台湾ずきの共通点
台湾に暮らす筆者にとって、現代中国の理解は重要という認識はあるものの、中国報道を見ていると解釈が難しい。加えて、在住10年を超えた身では、どうしても台湾びいきになる。それは伝え手の端くれにいる者としてはよろしくないなあ、と考えていた。
今秋、『中国ぎらいのための中国史』が刊行され、9月末の初版刊行からすでに3000部の増刷を重ねている。
著者はルポライターの安田峰俊さん。大学時代に東洋史を学び、大学院でも中国近現代史を専攻した。中国史への理解を核として、天安門事件から香港デモまで60人以上に取材した『八九六四』(角川新書)、中国秘密警察の拠点を体当たり取材した『戦狼中国の対日工作』など、中華圏や国境を越えた人々の生きる姿を丁寧な取材で描く。
『中国ぎらい〜』は、歴史的史実を時系列に解説するのではなく、学校教育で習う用語をカテゴリに並べ替え、歴史的な文脈を丁寧にひも解きながら現代中国の理解へとリンクさせる意欲作だ。
タイトルを見た時、筆者は(台湾なら『台湾ずきのための台湾史』ができそうだな)と考えた。
なぜか。
中国ぎらいと台湾ずきには「知っているようで知らない」という共通点がある。たとえば台湾について、以下をすべて把握している人はどれほどいるだろう。
- 1895年から1945年まで50年もの間、日本が台湾を統治していた。ちなみに韓国は1910年から35年だから、台湾のほうが長い。
- 台湾人の中には中国語ではなく台湾語が母語の人がいる。
- 1987年まで世界最長とされる戒厳令が敷かれていた。……
これらは、台湾では社会生活や学校教育で学ぶ基本的な事柄ばかりだが、意外にも日本で知る人は多くない。そして台湾在住11年になる筆者もまた、これらを知ったのは、台湾留学を決めた前後のことだった。
筆者自身のバグり経験
ここで自らの恥を晒しておこう。
子どもの頃に三国志ブームを体験した筆者は、なぜか中国への憧れを持ち続けて大人になった。学生時代には経済的な理由で海外留学が叶わず、社会人になってようやく留学を実現させるに至った。その最中、学生時代に台湾への留学経験を持つ友人に、ふと発した一言がある。
「いいねえ、○○さんは台湾人に友達がいて。わたしも台湾人の友達がほしいよ」
「……うーん、でもわたしも相手が台湾人だったから友達になったわけじゃないよ。たまたま仲良くなった相手が台湾人だっただけなんだよ」
平手打ちをくらった気分だった。
友人が指摘したのは、「東大卒の彼氏がほしい」とか「年収1000万の旦那がほしい」とか言っているのと同じである。好きになった相手が東大卒だった、ということと、東大卒だから好きになった、では全く違う。
そんな経験を経た自分が、今度は「台湾が好きなんです」という人の多さに面食らっているのである。
中国ぎらいと台湾ずきは表裏?
『中国ぎらいのための中国史』の著者、安田さんにお話を伺った。
「中国ライターをやっていると『中国が好きなんですか』とよく尋ねられるんですが、観察や分析の対象に好悪の情を挟むのはヘンでしょう。たとえば、ガンを研究する医学者だって、別にガンが大好きな人ではありませんよね」
人の脳が新しい情報を処理する場合、「スキーマ」というそれまでの知識のかたまりがあることが知られている。人の脳はそうした知識や経験を手がかりとして情報を処理していく。ここで中国と台湾の話で考えれば、好き嫌いという感情が理解の出発点にあるようだ。
一般的には、先入観や思い込み、固定概念といった捉え方をされるが、ステレオタイプもまた、脳が情報処理をする際に処理を簡略化するためのアプローチとされている。
つまり、「中国ぎらい」や「台湾ずき」といった言葉は、日本人の理解が固定化してしまったことが背景にあると言えるのではないか。
実はこれ、台湾にもある現象だ。「日本ずき」である。たとえば台湾でわたしが日本人だと知ると、明らかに相手の態度が変わることがある。レストランでは品数が増え、小売店では行列の中を優先され、好意だということは十分に認識しつつも、日本人というだけで履かされる下駄に、引いてしまう自分がいる。
安田さんのアプローチに学ぶ
確かに、異文化理解の初期段階では、どうしても上のようなステレオタイプのイメージが先行してしまうことはある。その段階を超えて、中国や台湾の理解を進めるために、安田さんはどのように思考しているのか聞いてみた。
「大事なのは縦軸と横軸の比較です。ある現象が中国の北京で起きた場合、まず過去の歴史に似た例がないか調べる。時間という縦軸で見るわけです。今度はそれが上海や広東で起きているか、また台湾や香港ではどうか、あるいはマレーシアや北米の華人社会では?などと横に広げて考えます。そうやって縦軸と横軸で分析的にものを見ていくわけです。アカデミックな思考法は、一般向けの記事や書籍にも応用できます」
そのうえで、安田さんは台湾の多様性を挙げて、こんなふうに指摘する。
「台湾といっても、台北からの視点だけが台湾ではありませんよね。民族的にも漢族と先住民、族群も客家と福佬で違うし、外省人にしたって東北から来た人と山東から来た人は全然違う。九州ぐらいの面積でそれほどの多様性を抱えている。たとえば、「中華民国の大陸側領土」である金門島に行ったことのない人も多いんじゃないでしょうか。いわゆる「台湾好き」の人でも、そういった台湾内部の多様性については無頓着な気がします」
では、どのようにして台湾なり、中国なりへの理解を深めればいいのか。
中国理解の限界と台湾理解の広がり
残念ながら、現状では中国に関してはある種の限界があるかもしれない。現地取材や現地訪問による調査研究がかなり難しくなっているからだ。
「入国時にまったくヒヤヒヤしなかったのは、2015年ごろまででしたね。コロナ後は中国の『国家安全』政策が厳しくなったので、しばらく現地に行っていないですし」
そうして安田さんは年々、取材の厳しさを感じる中で、どうやって中国取材を続けていくか、ずっと試行錯誤を重ねていた。
「2017年ごろまではひと月に1回くらい中国に出張していましたが、その時期からすでに危なさは感じていたので、現地に行かないでアプローチする方法を考えていました。そこで、まずは公開情報に当たることですよね。あとは北米や東南アジア、日本など第三国の中国人コミュニティを調べる、在外のコミュニティから中国を見る、というやり方ですね」
安田さんの捉え方に比べると、筆者の台湾の捉え方が縦にも横にも狭いことに気づかされた。台湾から見るだけが台湾ではない。海外に移民した台湾人は大勢いる。もちろん在日の台湾人も当てはまる。台北から見るだけが台湾ではない。東側の花蓮や台東、あるいは離島の金門や蘭嶼など、別の地域にはきっと違う見方や考え方がある。
縦でいうなら、政治史だけでなく、鉄道史、運動史、文化史、女性史、メディア史に言語史、映画史など、さまざまな項目で縦軸を見ることができるではないか。
……そう考えていくと、中国にしても台湾にしても、もっと日本での理解を広げる可能性が大いにあるように感じられた。
安田さんが警鐘を鳴らしたこと
そうした一般社会の理解に資するために必要なこととして同書の「おわりに」で安田さんは重要な提案をしている。
人文知の社会への還元である。
かつて日本には「シナ学」という中国を研究する学問が存在した。それらは、戦時利用の苦い経験を経たことで学問を実利に結びつけない動きがとられてきた。そして今や大学等では役に立たない学問としてリストラ対象だが、本来的には現代中国の理解に大いに役立つ。安田さんは言う。
「両者を結びつけようと実践したのが『中国ぎらいのための中国史』なんですよ」
政治、あるいは国際政治にまつわる言論は、炎上しやすい傾向にある。たとえどんなに訓練を積んでいたとしても、炎上する人たちの様子を見ると、どうしても心は萎える。だが安田さんは本書でこんな警鐘を鳴らす。
ヒントは韓国にあり。
こうした状況を打破するひとつが、エンタメだろう。
2024年11月、神田神保町でK-BOOKフェスティバルが行われた。韓国文学を刊行する版元が集い、本を通じて韓国文学に触れる場である。
韓国もまた「嫌韓」という言葉で括られることが多いが、少し様変わりしてきたと映る。やはりエンタメの力だ。
K-POPや韓流ドラマが世界中に広がることで、韓国への関心を高めた成功例といっていい。歴史や文化への橋渡しとしてのエンタメの可能性は大いにあるのではないか。
中国や台湾を知るには、日々流れてくる国際政治のニュースからだけでなく、小説やドラマ、あるいは現地の人たちの発信など、さまざまなアプローチがある。
「最初のとっかかりとしてエンタメはアリだと思います。人気のあるものはエンタメが作られるわけですから」(安田さん)
中国も台湾も、映画やドラマ、小説などさまざまなエンタメ作品が存在する。それらエンタメ作品にも、縦軸と横軸でとらえると非常に多様な姿を見ることができる。作品を通じてその多様さに触れ、見知らぬ土地に生きる人々の物語を知ることで、理解を深められるのではないか——わたしたちが知る姿など、一端に過ぎないことを心に刻みたい。