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センバツ高校野球 第3日のお気に入り/ちょっとした特異日になりました

楊順行スポーツライター
大崎の清水央彦監督は、2009年のセンバツで県勢初優勝した清峰でも礎を築いた(写真:岡沢克郎/アフロ)

 出場する6校のうち3校が21世紀枠(まあこれは、過去にも例があったが)、4校が九州勢……と、カードとしてはちょっとした特異日の大会第3日。なかでも、福岡大大濠と大崎の一戦は、初戦としては大会史上初めての九州対決となった。コロナ禍で、リモートでのフリー抽選となっためのクジのいたずらだが、両校はご丁寧にも昨秋の九州大会決勝でも当たっており、その再戦でもあった。

 それにしても、組み合わせの特異性にもましてミラクルなのは、初出場の大崎だ。なにしろ、廃校寸前だったのが、短期間でセンバツ出場なのだから。

廃校寸前からミラクルな躍進

 長崎県立大崎。1952年、佐世保工高崎戸分校と西彼杵高大島分校が統合して創立した高校だ。校名の大崎は、「大島町」と「崎戸町」(2005年の5町合併により消滅)の頭文字を組み合わせたものだ。野球部は60年に創部し、62年夏には西九州大会(当時の長崎県は、佐賀県と代表1枠を争っていた)で決勝まで進んだものの、佐賀商に0対1で惜敗した。だが炭鉱で栄えた町ゆえに、80年代以降は高齢化と過疎化が進む。ピーク時に2万人近かった人口が現在は5000人足らず。1学年400人が定員だった学校も小規模化し、野球部ときたら低迷もいいところで、15〜19年は夏の長崎大会初戦5連敗だった。

 だが、18年。清峰、佐世保実で甲子園経験を持つ清水央彦監督が就任した。西海市の教育委員会に採用されて17年8月にコーチになっており、監督に就任すると同時に、なんと20人もの新入部員が入学してくる。それまでは部員が5人しかおらず、廃部寸前だったのに、だ。すると急速に力をつけ、19年秋から20年夏、秋と、県内では負けなしで3連覇したばかりか、昨秋は九州トップにまで駆け上がった。

「支えてくれた西海市や、地元の方々に感謝。と同時に、過疎で生徒がいない高校も増えており、手本を示せるのではないか」と清水監督はいい、市民も「地域の活性化になる」と喜ぶ。野球部にはつねに鮮魚や野菜の差し入れが届き、センバツ出場決定翌日にはたくさんのワカメが届いていたという。

 そして、センバツ。

「前日が雨で中止だったので、あまりお客さんがいないのかと思いましたが、一杯いてくれてうれしかったです。ウチみたいなチームにこんなに応援してくださって、感無量でした」

 と清水監督のいうこの日の試合には、雨による1日順延にもかかわらず、アルプスには地元・西海市からも多くの観客が詰めかけた。試合は2回、エラーで出た走者が還るなどで2点を失ったものの、終始緊迫した展開。九州大会では勝っている相手に、7回には1点差としたがそこまでで、初戦で姿を消した。1時間43分の、きびきびした好試合だった。

「負けるときは弱いところが出ます」

 と試合後の清水監督。九州大会を優勝したときには、「3割くらい、地元に恩返しできたかな」と語っていたが、

「一番やりたくない負け方でした。勝たなかったら、意味がありません。恩返しは2割に減った」

 いや。自分が市民なら、あの日町ですれ違ったあの子たちが、甲子園できらきらしていたのを見るだけで十分、うれしい。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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