【戦国こぼれ話】大坂夏の陣後、豊臣方に与した武将たちは悲惨な最期をたどったという話
先月28日、舞台『刀剣乱舞』が千秋楽を迎えた。この舞台のテーマは、大坂の陣である。慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、豊臣秀頼と母の淀殿は大坂城内で自害した。しかし、そのほかの豊臣方の武将の最期はあまり知られていないので、取り上げることにしよう。
■長宗我部盛親の最期
慶長20年(1615)5月8日、豊臣秀頼と母の淀殿は徳川方の攻撃を受け、燃え盛る大坂城で自害した。大坂城落城後、豊臣方で逃亡する者も少なからず存在した。勇ましく戦場に散った者が注目されがちが、生き延びて逃亡する者も必死だったに違いない。しかし、彼らは順次捕らえられたのであった。
長宗我部盛親は豊臣方が勝利すれば、土佐一国を与えられる約束だったが、敗北を喫したため約束は反故になり逃亡した。5月7日に戦線を離脱した盛親は、11日に山城国八幡(京都府八幡市)で捕らえられた(『駿府記』)。盛親を捕らえたのは、蜂須賀至鎮の従者であったという。
盛親は二条城に連行されたが、そこで大勢の見物人の目にさらされた。そして、同月15日、六条河原で処刑され、三条河原で晒し首になった。盛親の首は京都市下京区の蓮光寺で埋葬され、のちに供養塔が建てられた。
壮絶な戦死を遂げた真田信繁の妻子と付き従った侍3人は、紀伊国伊都郡で浅野長晟(ながあきら)の手によって捕らえられた(『浅野家旧記』など)。捕らえられた信繁の妻は幕府に差し出され、調べてみると、黄金57枚と秀頼から与えられた脇差などを所持していたという。
このとき、豊臣方の大野治長に仕えていた北村善太夫も捕縛された。幕府方は彼らが反旗を翻すことを恐れ、執拗に落人狩りを行ったのである(『浅野家文書』)。ただし、信繁の妻が、その後どのような扱いになったのかは判然としない。
■大野治胤の最期
大野治長の弟で、道犬とも称された治胤も逃亡中に身柄を拘束された。5月23日、治胤は京都で捕らえられた(『孝亮宿禰日次記』)。捕らえられた日にちは、同月20日という説もあるが(『駿府記』)、実際には、21日が正しいようである(『譜牒余録』)。
治胤を捕らえた野間金三郎と小林田兵衛は、褒美として治胤の指していた大小の刀を与えられた。治胤の最大の罪状は、大坂夏の陣で堺を焼き討ちにしたことであった。そこで、幕府は堺奉行の長谷川藤廣に命じて、わざわざ堺で処刑した(『駿府記』)。
治胤の処刑の方法は、残酷なことに火あぶりの刑であった(「中山文書」)。その理由は、治胤が大坂の陣の一連の戦いで、堺を焼き払った見せしめということになろう。
■細川興秋の最期
少し変わったところでは、細川興秋という人物がいる。興秋は忠興の次男だったが、慶長10年(1605)10月に江戸へ人質として向かう途中、にわかに逃亡し牢人(浪人)となった人物である(『細川家記』)。その後の動向は不明であるが、大坂の陣の開戦とともに豊臣方についた。
豊臣方の敗戦後、興秋は伏見に潜伏していたが、やがて捕らえられた。家康は興秋の罪は重いが、忠興の多年にわたる功績によって、その罪を許そうとした。にもかかわらず、忠興は興秋に切腹を申し付けたのであった。興秋は、山城国東林院(京都市右京区)で自害した。
■文英清韓の処遇
捕らえられたのは、武将だけではない。方広寺鐘銘事件にかかわった文英清韓(ぶんえいせいかん)は、5月18日に京都所司代の板倉勝重に捕らえられた(『本光国師日記』)。文英清韓は大坂城内で亡くなったように思われていたが、実は脱出に成功していたのだ。
勝重は京都所司代という役職との関係上、京都で宿借りの手形の確認作業を行っていた。その際、文英清韓の伯父である允首座は、その書籍を譲り受けたと称して保管していた。允首座は東福寺(京都市東山区)へ移されるなどしたが、のちに文英清韓は身柄を拘束された。
戦後、勝重の指示のもと、京都市中の町のものが手分けして、文英清韓の行方を探索していた。文英清韓が捕らえられるとともに、匿った町人も身柄を拘束された。その後も文英清韓の書籍が京都五山の中にもないか捜索が続けられ、探索の手は武家伝奏を通じて朝廷にも及んだと記されている。
捕らえられた文英清韓は病になったが、完治したあとで駿府に移されることになった。文英清韓は遠隔地への流罪を懸念していたようであるが、そこまでには至らず、しばらくは拘禁生活が続いたようである(「中尾文書」)。文英清韓が亡くなったのは、元和7年(1621)3月25日のことであった(『時慶卿記』)。
このように大坂の陣終結後も、豊臣方の生き残った人々は、徳川方の厳しい追及にさらされた。そして、捕縛されると、ほぼ例外なく死を命じられたのである。