樋口尚文の千夜千本 第102夜「弟の夫」(吉田照幸演出)
圧倒的な優しさこそが最大の批判力である
会社経営にも結婚にもつまずいて、ちょっと淋しくちょっとニヒルな気分で人生のエアポケットみたいな時間を過ごしている主人公・弥一(佐藤隆太)のもとへ、病気で亡くなった弟・涼二(佐藤隆太=二役)がカナダで同姓婚をはたした相手(夫)であるマイク(把瑠都)が不意に訪ねてくる。マイクはその温厚な人柄で、当初はいくぶんとまどっていた弥一ともなじみ、弥一が離婚後も育てている娘・夏菜(根本真陽)とは一気に仲よくなる。
この三話完結のドラマで、徹頭徹尾マイクはこのうえなく紳士的で、繊細で、優しい。そんな何の落ち度もない素晴らしい存在に対して、ただゲイであるということだけで狭量な日本社会がどんな反応を見せるのか。はじめにそのまなざしを体現するのは、ほかならぬ弥一で、たぶん彼はごくごく平均的な日本人の視線を代弁していることだろう。マイクのおよそ古い日本家屋にはなじまない大きな体型にびっくりしつつ、弟がこの男に抱かれていたと思うと虫唾が走る、みたいな嫌悪感、抵抗感が弥一のなかで渦巻くところは、ちょっと見ていてドキッとするところだが、しかしそんな感情に真っ向から踏み込まなければこの作品は生ぬるいものになったことだろう。あるいは、愛娘の夏菜がマイクをとことん気に入って、夜中にその胸板で遊んでいるのを見て、弥一が(夜更かしをするな、という理屈にすりかえつつ)嫌悪から声を荒げるくだりなども印象的だ。
ところが、マイクの人間性にほだされて好感を深めることが避けがたくなってしまった弥一に、中盤からはこれらの自らの差別的な記憶が刃となってズキズキと帰ってくる。自責の念にかられた弥一は、自らをひそかに断罪する一方で、今度はマイクにまつわるニッポン的なつまらない差別の空気に敏感になり、異議を感ずるようになる。ここの説得力も、あくまで助走部分で自らの差別意識にあらがえない弥一を包み隠さず描いているからこそ効いている。夏菜の学校の担任(大倉孝二)と弥一の対話は、本作の怒りの軸での静かな沸点である。先生は自分があからさまにゲイを差別しているのではなく、夏菜がゲイの人と親しくしていることで故なきいじめにあうのが心配だから、夏菜とマイクの親交は人目につかぬほうがいいと言う。
この先生の言葉は、日本のムラ的な愚かさと閉塞感がとても象徴的にあらわれていて、弥一は先生が糾弾すべきはマイクではなく、そこでいじめに走る子どもの側ではないかと核心を突く。まるで根拠のない差別を温存させて、「いじめにあわないように」といったタテマエにすりかえながら、事なかれでやりすごそうとする教員の怠慢に、いつしか弥一は大疑問を感ずるようになっていた。ここは本作のメッセージ性においてはひとつの山場であるが、一方で差別のいかんともしがたい根深さを描く箇所も心に残る。涼二とゲイであることを告白しあっていた友人(野間口徹)は、差別が怖くて絶対に周囲にばれないようにおどおどと過ごしている。それゆえ、マイクと会って涼二の記憶を懐かしくたどり直す時も、地元を離れて繁華街で「密会」する念の入れようだ。この悩める存在を、野間口徹が実にきめ細かい役づくりで演じていて忘れがたい。
さて、このゲイに対する差別意識を描く怒りの縦軸に対し、このドラマの素晴らしいところはまさにその差別意識の対極にある優しさの横軸を据えたところだ。つまりこのドラマは、実はカナダで結婚したパートナーを病いで失い、せめてその生きてきた足跡をたどって故人を偲ぼうと思い立った「夫」の優しさの物語が「本来の」姿であって、その舞台が仮にも偏狭な日本であったがために厄介な差別問題がこびりついてきた、というものなのである。そして、終盤に描かれるその「本来の」故人への思い出をもってマイクと弥一が交歓する場面の純粋さは、涙なしにはすまない。それはおそらく、怒りの縦軸を優しさの横軸が追い越したことにまつわる感動なのだろう。
評判になっていた田亀源五郎の原作を戸田幸宏がエッセンスを抽出して脚色、『洞窟おじさん』『獄門島』で気を吐く吉田照幸が演出、抑制的で音楽も控えた静謐な演出がじわじわと見る者の心をつかむ。それにしてもこの穏やかなドラマにあって把瑠都の起用という唯一最大のベンチャーは大成功だった。そしてまた把瑠都の素朴さを片側で手堅く引き立て続けた佐藤隆太も、年齢を重ねてまた一段といい雰囲気を醸している。この一家庭の少人数の物語に風穴をあけるような弥一の元妻・夏樹に扮した中村ゆりも『平成細雪』に続いてきっぷのいい演技を見せてよかった(弥一と夏樹がなんとなくしなだれかかりたい流れで「別れた夫婦がセックスして何してんだろう」と言い合っているとぼけた部分など本当に笑えた)。「LGBT」という括り方自体に何かこわばりきった怒りの感覚を覚えてしまう私だが、本作は圧倒的な優しさこそが最大の批判力なのだということを教えてくれる。その表現にあたって、特に本作のキャスティングはめざましく奏功している。