設楽原の戦いで無念にも戦死した、武田勝頼の3人の重臣
大河ドラマ「どうする家康」では、設楽原のシーンがハイライトだった。設楽原の戦いで武田軍は敗北を喫したが、その際に戦死した武田勝頼の重臣を3人取り上げておこう。
天正3年(1575)5月21日、設楽原で織田・徳川連合軍と武田軍が戦い(設楽原の戦い)、武田軍は織田・徳川連合軍に敗北し、多くの家臣を失った。そのうちの山県昌景、土屋昌続、馬場信春を取り上げることにしよう。
1.山県昌景(?~1575)
山県昌景は幾多の合戦で、武田軍を率いて戦った。武田四天王・武田二十四将の1人として知られている。設楽原の戦いにおいて、昌景は約300の軍勢を率い、武田軍の左翼に陣を置いた。一説によると、昌景は身長が低く(130~140cm)、不器量だったと伝わる。
しかし、昌景が率いた赤備え(赤で統一した軍装)は最強と言われ、敵軍から恐れられたという。設楽原の戦いで、昌景は一番に敵に攻め込んだが、敗北を喫し戦死した。『信長公記』で討ち取った者として昌景の名を一番に挙げているのは、これまでの数々の武功を評価したからだろう。
2.土屋昌続(?~1575)
昌続は武田家の重臣で、武田二十四将の1人でもあった。設楽原の戦い前夜には、撤退派と交戦派に分かれて議論されたが、昌続は山県昌景らとともに撤退を進言したという。しかし、勝頼は撤退派を退け、織田・徳川連合軍との決戦を決意した。
合戦の当日、昌続は真田信綱・昌幸兄弟とともに、天神山に陣を置いた。昌続は果敢にも織田・徳川連合軍に突撃したが、鉄砲で撃たれ戦死したという。配下の温井昌国は昌続の首を持って信濃に逃げようとしたが、途中で首を埋めて自害したという。
3.馬場信春(?~1575)
信春は武田家の重臣で、信虎、信玄、勝頼の3代にわたって仕えた。設楽原の戦いを控えて、信春は自軍が不利であることを進言し、撤退することを主張した。しかし、勝頼は出陣したのである。信春は700の兵を率い、佐久間信盛の軍勢を撃破した。
やがて、武田軍が劣勢となり撤退すると、信春は殿(しんがり)を務めた。ところが、織田・徳川連合軍の追撃は激しく、ついに信春は討ち取られた(自害したとも)。その働きぶりや最期は、『信長公記』で「比類なし」と絶賛された。