【富田林市】富田林東北部にある西条町の由来とは?調べてみると、幻の西条川に関する驚きの事実があった!
富田林市は、富田林町と複数の村が合併した上で富田林市になり、その後東條(東条)村とも合併しました。かつての旧東條村のあたり、市の東側は東條地域と呼ばれています。
東條(東条)があるなら西條(西条)はないのかなと地図を見ると、西条町があることを知りました。というわけで西条町を実際に歩いてみながら、西条の名前の由来について調べてみました。
西条町の位置関係を見てみましょう。富田林市の東北にある小さな町で、羽曳野市、太子町、河南町に囲まれたような場所にあります。またさらに東には、以前紹介したことのある通法寺町がありますね。町の範囲を見る限り、その多くが石川河川敷になっています。
また地図で見ても分かるように、西条町の中に河南橋と喜志大橋が含まれています。
さて実際に富田林市西条町を歩いてみることにしました。7月上旬だったので、まだ稲が小さいですね。西条町へは河南橋や喜志大橋を東側に渡れば行けますが、今回はある理由により、あえて南の河南町から北に向かって歩きました。
それはこちらです。河南町から西条町に入る境目にある、画像の富田林市西條(西条)町水路改修記念之碑を確認したかったからです。
残念ながら水路改修についての情報は出てきませんが、ここが西条町だとわかる石碑ですね。
改修したという水路は本当に小さな水路で、農業用水に使うものです。
地図で位置関係を示すと次の通りです。ここは河南町との境界線だけでなく、北東方向に続く水路を境に、太子町とも接していますね。3つの自治体の境界線なのでまるでゴールデントライアングルのようです。
水路を境に、左側が富田林西条町で、右側が太子町になります。
西条町を北方向に歩くとやがて喜志大橋が見えてきました。
石川河川敷には野球グラウンドがあります。地図上ではこのグラウンドも西条町。
こちらは河南橋です。西条町は1丁目と2丁目に分かれており、河南橋が境界線。橋より南側が西条町1丁目で、北側が西条町2丁目です。
西条町のエリアは旧喜志村にありますが、なぜ西条町という名前なのか調べてみました。しかし情報がありません。画像は1900年ごろの古地図で、旧喜志村の様子ですが、西条町のあたりは田畑しかありません。
河南橋を超えて西条町2丁目が見えるあたりを歩きます。一部企業もありますが、現在も田んぼが目立ちますね。
さて、何か手掛かりがないかと調べると、あるキーワードが見つかりました。それは西条川という名前です。この画像は富田林市史 第2巻の目次の一部ですが、石川と西条川という項目に何かヒントが無いか。
富田林市立図書館(外部リンク)に立ち寄り、富田林市史 第2巻を借りて、該当箇所を確認しました。すると衝撃の事実がありました。江戸時代から明治初期にかけて石川の一部が西条川と呼ばれていたというのです。
富田林市史によると、江戸享保年間末に発行された「五畿内志」に名前が登場します。石見川、石佛川、加賀田川、唐川などが長野(現:河内長野)で合流し、そこから下流は西条川と呼ばれたとのこと。
さらに西条川は山中田で佐備川を合わせ、大伴で東条川と合流して石川となると書いてありました。ここでいう東条川は、現在の千早川のことです。
記述をもとに地図で表すと次の通りになります。現在の河内長野駅近くで川が合流してから西条川となり、現在の千早川と合流してから初めて石川になったとあります。現在の西条町はちょうどふたつの河川が合流したあたりから北側になっていますね。
これだけでは確証出来てはいませんが、この幻の西条川の西条が町の名前に関係しているのではと考えてしまいます。
ただ、江戸時代の別の記録では滝畑からの流れを石川と定めているような記述もあり、西条川と同時に石川の名前も使っていたようです。また1690(元禄3)年には大川、1705(宝永2)年には「流川」という呼び方をしていたという記録もあるそうです。
なお、明治30年代には西条川という言葉はなくなったようですが、その代わり?に地名で、富田林に西条という名前が残ったことになりますね。
ということで西条町の北端近くまで歩きました。この先は梅川との合流点で、途中から羽曳野市になるようです。
ふとしたきっかけで気になった富田林西条町の謎は、江戸から明治のころに石川の一部を(西条川)と呼ばれていたというところまで事実がわかりました。こうやって地名の過去を探ると、意外な事実が見えてくるので面白いですね。
富田林市西條町水路改修記念之碑
住所:大阪府富田林市西条町1丁目
アクセス:近鉄喜志駅から徒歩25分
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