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「罪の成立について争う」 4630万円の誤振込事件で無罪主張、その理由は?

前田恒彦元特捜部主任検事
(写真:イメージマート)

 阿武町による4630万円の誤振込に端を発した事件で電子計算機使用詐欺罪に問われた男性の裁判が始まった。オンラインカジノへの送金を認めるも、弁護側は「罪の成立について争う」と述べ、無罪を主張した。

無罪主張の理由は?

 今回のケースで電子計算機使用詐欺罪が成立するには、銀行の事務処理に使用されるコンピュータに「虚偽の情報」か「不正な指令」を与えたと言えなければならない。検察側は前者に当たるとみて起訴している。

 一方、弁護側は、損害賠償を済ませて阿武町と和解が成立しているからとか、町にも落ち度があったから無罪だと主張しているわけではない。男性には道義的責任があるが、コンピュータに「虚偽の情報」を与えたとは言えないから、犯罪の成立要件を充たしていないという。おおむね次のような理由を挙げている。

(1) 男性がオンラインカジノ側に送金した際に使用した暗証番号などは男性自身のもので、その入力に何ら誤りはなく、「虚偽の情報」ではなかった。

(2) たとえ阿武町からの4630万円が誤振込であっても、民事的にはその預金債権は男性に帰属していた。

(3) 男性には銀行に誤振込の事実を告知する義務などないし、男性は銀行もこれを知っていると考えており、告知を要するという発想すらなかった。

最高裁判例との整合性は?

 このうち(1)は形式面からの主張になるが、(2)と(3)は誤振込に関する最高裁の判例を意識したものだ。次のとおり、(2)は1996年の民事裁判、(3)は2003年の刑事裁判の判例との整合性が重要となる。

【1996年の判例】

・たとえ誤振込であっても、受取人は銀行に対し、その金額に相当する預金債権を取得する。

・振込依頼人は受取人に不当利得返還請求権を行使できるが、預金債権の譲渡を妨げる権利まではないから、受取人の債権者が預金債権を差し押さえた場合でも、これを許さないように裁判所に求めることはできない。

【2003年の判例】

・受取人は、自らの口座に誤振込があると知った場合、振込依頼前の状態に戻す「組戻し」のほか、入金処理や振込の過誤の有無を確認・照会する措置を講じさせるため、誤振込があったという事実を銀行に告知すべき信義則上の義務がある。

・社会生活上の条理からしても、受取人は誤振込分を振込依頼人等に返還しなければならず、最終的に自らのものとすべき実質的な権利などないから、告知義務があることは当然のこと。

・誤振込があると知った受取人が、その情を秘して預金の払戻しを請求し、その払戻しを受けた場合には、詐欺罪が成立する。

 1996年の判例は、男性に預金債権が帰属していたという弁護側の(2)の主張を裏付けるものだ。一方、2003年の判例は、1996年の判例を前提とした上で、それでもなお受取人には詐欺罪が成立すると述べたものなので、弁護側としても、(3)のとおり今回のケースには適用されないといった主張をする必要がある。

 2003年の判例は銀行の窓口で銀行員を相手にして実行した詐欺事件に関するものであり、機械的な判断をするだけで「だまされる」という要素のないコンピュータ相手の電子計算機使用詐欺罪についてはこの判例の射程外だといったものだ。

検察側の主張は?

 以上に対し、検察側は、起訴状の中で「正当な権限」という実質的な判断を踏まえた言い回しを用いた上で、おおむね次のような構成で男性に電子計算機使用詐欺罪が成立すると主張している。

(a) 男性は4630万円が誤振込だと分かった上で、町から返金を求められて了承するなどしており、もはや正当な権限などなかった。

(b) にもかかわらず、男性は、正当な権限に基づいてオンラインカジノの決済代行業者名義の預金口座に送金を依頼するという「虚偽の情報」を銀行のコンピュータに与えた。

(c) その結果、この業者の預金残高を増加させて不実の電磁的記録を作り、オンラインカジノサービスを利用する地位を不法に得た。

 誤振込であっても銀行との関係では預金債権は成立するものの、1996年や2003年の判例からすると受取人が全く自由に使っていい性質のものではなく、町の返金請求を認めたあと、なお銀行に対してその債権を行使するのは著しく正義に反し、権利濫用に当たるので、男性には正当な権限がなかったという考え方だろう。

 このほか、弁護側の(1)の主張、すなわち入力した暗証番号などに誤りはなく、形式的には「虚偽の情報」ではなかったという点についても、検察側は最高裁の2006年の判例を踏まえて反論するものと思われる。

 他人のクレジットカードのカード番号や有効期限などの情報をオンライン上で入力、送信し、電子マネーを購入したとして電子計算機使用詐欺罪に問われた事件だ。弁護側は、そのカード番号などは真正なものだから、何ら「虚偽の情報」には当たらないと主張して争った。

 これに対し、一審、控訴審や最高裁は、カード番号などの形式的な不一致を「虚偽」か否かの判断基準とはせず、カードの名義人による購入申込みがないのに、そのカード番号などを入力、送信し、名義人本人が購入を申し込んだかのような情報を入力することを「虚偽」ととらえた上で、電子計算機使用詐欺罪の成立を認めた。

 検察側は、今回のケースについても男性には正当な権限がなかったと主張しているわけだから、たとえ男性が入力した暗証番号などが正しいものであっても、なお「虚偽の情報」を与えたと評価することになる。

新判例になるか?

 今回のケースは、客観的な事実関係に争いがなく、実にシンプルな事案のようにも見える。しかし、最高裁の判例を踏まえると、法的には難しい事件であり、法曹実務家や刑法学者の間では無罪説も有力だ。

 検察が最高検まで了承し、自信をもって起訴した事件でも、法律の解釈や適用が問題となり、無罪となった例は多い。例えば、東京地検特捜部が旧薬事法違反で立件したディオバン事件も、一審、控訴審、上告審と3タテを喫し、無罪のまま確定している。事実関係については検察側の主張が認められたものの、旧薬事法が規制する誇大広告には当たらないという理由だった。

 検察は今回のケースについて新判例を作る意気込みだが、初公判の映像を見ると、一審は3人の裁判官による裁定合議ではなく、山口地裁の裁判官1人によって審理される模様だ。

 12月に検察側の求刑が行われ、来年2月には判決が言い渡される見込みとなっている。この裁判官がいかなる理屈に基づいて今回の事件をどのように判断するのか、まずは一審の行方が注目される。(了)

元特捜部主任検事

1996年の検事任官後、約15年間の現職中、大阪・東京地検特捜部に合計約9年間在籍。ハンナン事件や福島県知事事件、朝鮮総聯ビル詐欺事件、防衛汚職事件、陸山会事件などで主要な被疑者の取調べを担当したほか、西村眞悟弁護士法違反事件、NOVA積立金横領事件、小室哲哉詐欺事件、厚労省虚偽証明書事件などで主任検事を務める。刑事司法に関する解説や主張を独自の視点で発信中。

元特捜部主任検事の被疑者ノート

税込1,100円/月初月無料投稿頻度:月3回程度(不定期)

15年間の現職中、特捜部に所属すること9年。重要供述を引き出す「割り屋」として数々の著名事件で関係者の取調べを担当し、捜査を取りまとめる主任検事を務めた。のみならず、逆に自ら取調べを受け、訴追され、服役し、証人として証言するといった特異な経験もした。証拠改ざん事件による電撃逮捕から5年。当時連日記載していた日誌に基づき、捜査や刑事裁判、拘置所や刑務所の裏の裏を独自の視点でリアルに示す。

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