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三好長慶の死と、抗争を繰り広げた三好三人衆、松永久秀のその後

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 大阪府大東市で三好長慶をしのぶ武者行列イベントが行われ、好評のうちに終えたという。こちら。長慶は畿内を支配した著名な大名だが、その死後は抗争が繰り広げられたので、その辺りを取り上げておこう。

 大永2年(1522)、長慶は阿波や山城で守護代を務めた元長の子として誕生した(初名は範長)。天文元年(1532)、細川晴元と対立した元長は、顕本寺(大阪府堺市)で自害した。

 その翌年、12歳の長慶は晴元と本願寺との講和を仲介し、その類稀なる才能を発揮した。さらに天文3年(1534)10月、長慶は木沢長政の仲介によって、仇敵の晴元に仕えることになったのである。

 その後、長慶は晴元と対立と和睦を繰り返したが、天文8年(1539)に摂津西半国の支配を任され、越水城(兵庫県西宮市)を居城とした。ここから長慶の快進撃がはじまった。

 天文11年(1542)に長政に勝利すると、その5年後には細川氏綱、遊佐長教の連合軍を打ち破った。その後、氏綱を擁立して晴元から離反すると、天文18年(1549)6月の摂津江口の戦いで晴元に勝利し、入京して畿内を支配したのである。

 天文22年(1553)7月、長慶は将軍足利義輝・晴元連合軍に勝利し近江に追放すると、念願の政権を樹立した。その支配領域は、山城、丹波、摂津、和泉、淡路、讃岐、阿波の7ヵ国にも及んだ。永禄元年(1558)には義輝と和睦して帰京を許し、居城を飯盛山城(大阪府大東市・四条畷市)に移したのである。

 長慶の勢力は急速に拡大したが、永禄4年(1561)頃から衰退の兆しを見せた。その要因のひとつは、配下の松永久秀の台頭にあった。永禄6年(1563)、長慶は嫡男の義興を失うなど失意の日々を過ごし、永禄7年(1564)に飯盛山城で病死したのである。

 長慶の生前から台頭したのが久秀である。久秀が長慶の配下に加わったのは、天文10年(1541)のことである。以降、久秀は長慶の重臣として処遇され、訴訟取次など奏者役を務めた。ところが、実際には久秀の弟・長頼が軍事的能力に長けており、その力量が評価されたといわれている。

 先述のとおり、長慶が晴元に勝利すると、久秀はその功により弘治2年(1556)に滝山城(神戸市中央区)を本拠とし、永禄2年(1559)に信貴山城(奈良県平群町)主となった。翌年には、ほぼ大和を支配下に収めたという。

 長慶の死後、家臣だった三好三人衆(三好長逸・岩成友通・三好政康)と久秀が三好政権の中枢を担うことになった。永禄7年(1564)、三好三人衆らは将軍の義輝を暗殺し、義栄の擁立に成功した。

 ところが、その直後に久秀と三好三人衆は対立し、三好政権が弱体化すると、台頭した織田信長に屈した。久秀は信長に大和を安堵されたが、天正5年(1577)に信貴山城で自害したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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