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仙台空港、東日本大震災後の再開から丸10年。10年前の4月13日に仮施設で羽田~仙台の臨時便が飛んだ

鳥海高太朗航空・旅行アナリスト 帝京大学非常勤講師
10年前の2011年4月13日、仙台空港が運航再開した初日の様子(筆者撮影)

 2011年3月11日の東日本大震災から先月11日に10年を迎えたが、震災後の津波の被害を大きく受けた仙台空港に4月13日は節目の日になる。震災から33日後の10年前の2011年4月13日に仙台空港の運用が再開された。仙台空港の運用再開からも10年となった。

震災から33日後の2011年4月13日に運用再開

 東日本大震災で大きな被害を受け、ターミナルのほとんどが使えなかったことから、暫定施設での仮復旧となった。また東北新幹線の運転が再開に時間を要するとのことで、羽田~仙台、そして伊丹~仙台の臨時便が2011年4月13日から運航を開始した。筆者が10年前の2011年4月13日にANAの羽田発仙台行きの仙台空港再開初便で仙台空港へ飛んだ際の様子について写真と共に振り返る。

津波は床上3.02メートルの高さに。当時は1700人が避難

 その前に仙台空港における津波の状況について振り返るが、仙台空港には「数字で振り返る、仙台空港 復興のあゆみ」というパネルが展示されているが、仙台空港では震度6弱の地震発生から約70分後に津波が押し寄せ、津波によって窓ガラスが破壊され、仙台空港のターミナルビルも床上3.02メートルの高さまで浸水した。幸いにも旅客機が駐機していない時間であり、旅客機が流されることはなかったが、仙台空港に押し寄せた津波の映像は日本中に発信された。

 当時仙台空港利用していた乗客や近隣に住んでいる方、空港で働くスタッフなども合わせて約1700人の人が安全であるターミナルビルの2階や3階に避難していたとのことだ。停電によって照明や空調が使えなかったことで夜は真っ暗となり、外の気温はマイナス5度という状況だったそうだ。最終的に避難者全員が空港から待機するのに6日間かかったが、みんなで助け合いながら避難生活を送ったとのことだった。

24時間体制で復旧作業。米軍隊員も復旧作業に尽力

 その後仙台空港では、東北新幹線が長期間再開までに時間がかかることから、早期の復帰を目指して24時間体制で作業が行われ、空港内に溜まった泥水の排水や漂流してきた瓦礫や車の撤去などの撤去作業を経て、震災から33日後の4月13日に旅客機の運航が再開された。再開にあたっては、延べ3500人の米軍隊員が応援に駆けつけてくれたとのことだ。

当時の様子(2011年4月13日、筆者撮影)
当時の様子(2011年4月13日、筆者撮影)

運航再開初便はビジネス関係のお見舞いへ出かける人が中心だった

  暫定的な出発・到着エリアを整備して仙台空港は運航再開したが、筆者はANAの羽田空港発仙台空港行き臨時便の初便に搭乗し、震災後初めて仙台空港に向けて出発したが、搭乗者の多くはビジネス客で取引先や自社の工場などへのお見舞いへ出かける人だったと記憶している。また工事関係者の利用もあった。普段のフライトと雰囲気が違う機内であった。

運航再開初便の2011年4月13日のANA羽田→仙台線。機体には「心をひとつに、がんばろう ニッポン」と描かれた(筆者撮影)
運航再開初便の2011年4月13日のANA羽田→仙台線。機体には「心をひとつに、がんばろう ニッポン」と描かれた(筆者撮影)

 羽田空港を離陸して約50分のフライトで仙台空港へ着陸となったが、着陸直前は、津波で変わり果てた光景が窓から見えた瞬間、搭乗者は現実を目の当たりにした。そして仙台空港に着陸した。

仙台空港到着時も横断幕を持ったANA社員の出迎えを受けた(2021年4月13日筆者撮影)
仙台空港到着時も横断幕を持ったANA社員の出迎えを受けた(2021年4月13日筆者撮影)

仙台空港に到着した際には、伊丹空港からのJAL便も到着していた(筆者撮影)
仙台空港に到着した際には、伊丹空港からのJAL便も到着していた(筆者撮影)

仙台空港は暫定のカウンターで対応。応援メッセージで溢れていた

 到着後には航空会社のスタッフが乗客を出迎え、暫定施設の利用となり、手荷物も手渡しで行われていたが、特に不便に感じることもなく利用することができた。ここまでわずか33日間で再開できたことは奇跡と言ってもいいだろうと思った。到着案内版も特製ボードで用意され、ロビー内には全国各地から寄せられた横断幕やメッセージが掲示されるなど、関係者が一丸となって空港再開へ向けて努力したことを感じた。

手荷物引き渡し所。スタッフの手で運ばれていた(2011年4月13日、筆者撮影)
手荷物引き渡し所。スタッフの手で運ばれていた(2011年4月13日、筆者撮影)

仙台空港の到着ロビー(2011年4月13日、筆者撮影)
仙台空港の到着ロビー(2011年4月13日、筆者撮影)

ANAチェックインカウンター(2011年4月13日、筆者撮影)
ANAチェックインカウンター(2011年4月13日、筆者撮影)

JALチェックインカウンター(2011年4月13日、筆者撮影)
JALチェックインカウンター(2011年4月13日、筆者撮影)

ターミナルには応援メッセージで埋め尽くされていた(2011年4月13日、筆者撮影)
ターミナルには応援メッセージで埋め尽くされていた(2011年4月13日、筆者撮影)

仙台空港出発便をお見送りするANAの伊東信一郎社長(当時) (2011年4月13日、筆者撮影)
仙台空港出発便をお見送りするANAの伊東信一郎社長(当時) (2011年4月13日、筆者撮影)

仙台空港発羽田行きをANA社員がお見送りした(2011年4月13日、筆者撮影)
仙台空港発羽田行きをANA社員がお見送りした(2011年4月13日、筆者撮影)

仙台空港のターミナルビル内(2011年4月13日、筆者関係者撮影)
仙台空港のターミナルビル内(2011年4月13日、筆者関係者撮影)

震災から約1ヶ月後の仙台空港周辺は

 外へ出て、タクシーを手配して約30分間空港周辺を走ってもらったが、空港周辺は、家屋が倒壊したままでがれきが散乱し、自動車も船も乗り上げていた。橋も大きく損傷し、ここが日本ではないような光景で、これまで日常の生活の全てが失われてしまうのかということを見せつけられた。

仙台空港のターミナルの外(2011年4月13日、筆者撮影)
仙台空港のターミナルの外(2011年4月13日、筆者撮影)

仙台空港周辺をタクシーで廻った際の写真(2011年4月13日、筆者撮影)。道路は走行可能であったが、車や瓦礫、船などが散乱としていた
仙台空港周辺をタクシーで廻った際の写真(2011年4月13日、筆者撮影)。道路は走行可能であったが、車や瓦礫、船などが散乱としていた

震災発生から10年を迎えた仙台空港は地方空港の模範に

  そして震災から10年を迎えた2011年3月11日、地震の発生時刻である14時46分に筆者は仙台空港で黙祷を捧げた。10年が経過しターミナルは完全復旧し、 2016年7月からは民営化したことにより国際線やLCC(格安航空会社)の誘致を積極的に進めたことで、 路線網が大幅に拡充し、東北の玄関口としての役割を果たすべく、宮城県内だけでなく山形県(山形駅、酒田、鶴岡など)、福島県(福島、会津若松など)へのバスのネットワークも拡充し、更には海外からの路線網も大幅に拡充したことで、地方空港における民営化ビジネスのお手本として評価される空港となった。

震災から10年、2021年3月11日の地震発生時刻の14時46分の仙台空港。黙祷が捧げられた(筆者撮影)
震災から10年、2021年3月11日の地震発生時刻の14時46分の仙台空港。黙祷が捧げられた(筆者撮影)

2021年3月12日には仙台空港に期間限定で設置された「復興ピアノ」とANA Team HANEDA Orchestraのコラボ演奏が行われ、「花が咲く」などを演奏した(筆者撮影)
2021年3月12日には仙台空港に期間限定で設置された「復興ピアノ」とANA Team HANEDA Orchestraのコラボ演奏が行われ、「花が咲く」などを演奏した(筆者撮影)

 現在は新型コロナウイルスの影響によって、仙台空港は国際線が全便運休となっているほか、国内線も一部便が減便となっており通常と比べると利用者が少ない状況となっている。それでも10年が経過し、震災での心の傷は癒えていないが、仙台空港も日常は取り戻している。新型コロナウイルスが収束したのち、仙台空港には国内に加えて、海外からの訪日外国人観光客(インバウンド)が戻ってくることを期待したいと思う。

航空・旅行アナリスト 帝京大学非常勤講師

航空会社のマーケティング戦略を主研究に、LCC(格安航空会社)のビジネスモデルの研究や各航空会社の最新動向の取材を続け、経済誌やトレンド雑誌などでの執筆に加え、テレビ・ラジオなどでニュース解説を行う。2016年12月に飛行機ニュースサイト「ひこ旅」を立ち上げた。近著「コロナ後のエアライン」を2021年4月12日に発売。その他に「天草エアラインの奇跡」(集英社)、「エアラインの攻防」(宝島社)などの著書がある。

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