【「麒麟がくる」コラム】滝藤賢一の「壊れた演技」で話題を呼んだ足利義昭。本当はどんな人だったのか
■存在感を示した足利義昭
大河ドラマ「麒麟がくる」では、滝藤賢一が足利義昭を演じ、「壊れた演技」で話題を呼んだ。そして、大河ドラマの表舞台からは姿を消した。
足利義昭は主役に匹敵する扱いだったが、実際はどんな人物だったのだろうか。
■足利義昭とは
足利義昭は義晴の次男として、天文6年(1537)に誕生した。義輝の弟である。天文11年(1542)に近衛稙家の猶子となり、興福寺一乗院に入室し覚慶と名乗った。
永禄8年(1565)、義昭は義輝の自刃を知ると、興福寺を脱出。越前の朝倉義景を頼った。しかし、義昭は義景から上洛の支援を得られず、永禄11年(1568)7月に美濃国立政寺(岐阜市)を訪れ、織田信長を頼ったのである(『信長公記』)。
同年9月、信長は義昭を奉じて上洛するため、近江国の六角承禎(義賢)に協力を求めたが、承禎は拒否。承禎を打ち破って西上した。
■上洛を果たした義昭
永禄11年(1568)10月、信長は畿内近辺の三好三人衆らの諸勢力を攻略し、畿内周辺を平定。信長は、義昭を推戴して入京を果たした。
信長の軍事行動は、室町幕府再興を目指す義昭のためだった。義昭を傀儡として、自身が天下を取ろうと考えていなかった。同年10月18日、正式に義昭は将軍宣下を受け、室町幕府の再興を果たしたのだ。
入洛時の信長は、義昭と協力して天下(=畿内)の安泰を図ろうとした。しかし、当の義昭は上洛したことに満足し、いささか有頂天になっていたようだ。
■はしゃぎ過ぎた義昭
義昭は将軍宣下を受けた直後の同年10月22日、十三番の能楽の興行を命じた。ところが、信長はまだ隣国の平定が終わっていないので、十三番から五番に短縮させた。(『信長公記』)。
信長の目的は室町幕府の再興だけでなく畿内平定にあったので、こうした措置を取ったのだ。能楽に興じている時間はなかったのである。
■信長に感謝する義昭
その後、義昭は信長に副将軍か管領職を与えようとしたが、信長は辞退(『信長公記』)。また、永禄12年(1569)3月、正親町天皇は信長を副将軍に任じるため、勅旨を下した。
ところが、最終的に信長から朝廷への回答はなかった(『言継卿記』)。義昭は信長に副将軍や管領に任命し、手なずけようとした感があるが、見事に失敗した。
永禄11年10月、義昭は信長に三好三人衆を退治し、室町幕府再興に尽力したことについて、礼を述べる感状を送った(『信長公記』)。
義昭は信長の武功を「武勇天下第一」と称え、宛先には「御父織田弾正忠殿」と記した。義昭は、信長の武功を最大限に評価して父のように慕った。同時に義昭は、信長の「大忠」に報いるため、将軍家が用いる桐紋と二引両の紋を与えたのである。
■決裂した義昭と信長
永禄12年(1569)1月、信長は「殿中掟九ヵ条」と追加で「七ヵ条」を定めた。「殿中掟九ヵ条」と追加の「七ヵ条」は室町幕府で規定された基本的事項であり、信長は幕府を機能させ、京都や畿内の秩序維持を期待した。信長は、旧来の室町幕府のシステムをそのまま復活させようとしたのである。
元亀3年(1572)9月、信長は義昭に対して「異見十七ヵ条」を突きつけ(『尋憲記』など)、義昭のこれまでの行動を非難した。これが2人の関係を引き裂くことになった。
「異見十七ヵ条」は、信長の義昭に対する金言(いましめや教えとして手本とすべき言葉)を意味したが、義昭は「金言御耳に逆り候」と述べ、受け入れなかったのだ(『信長公記』)。こうして、ついに2人の関係は決裂したのである。
元亀4年(1573)7月、義昭は槙島城(京都府宇治市)で挙兵したが、わずか17日で信長の前に屈し、室町幕府は事実上崩壊。義昭は、再び放浪の旅に出るのである。