唐突に星になった愛馬に、深く携わった2人のホースマンが思い出を語る
ダービーへ連れて行ってくれた馬
朝の調教を終え、家でテレビ観戦をしていると目を疑うような光景が飛び込んで来た。
「ヤバいな……」
その瞬間、そう思ったのは児玉武大。46歳の彼の目に映ったのは、急失速するスズカデヴィアス(牡10歳)の姿だった。
同じように自宅でその様を見ていた男がもう1人いた。32歳の橋田宜長。スズカデヴィアスを管理する橋田満調教師の長男は、願った。
「何とか無事でいてほしい……」
祖父、父に続き三代で調教助手となった児玉。1994年から橋田厩舎一筋。99年には担当したアドマイヤベガが日本ダービー(GⅠ)を制覇した。
「ダービーが素晴らしいのは分かっていたつもりでしたけど、自らの馬を送り込んでその雰囲気の凄さを改めて痛感したし、勝てた事で『こういう馬を育ててまた来たい』と強く考えるようになりました」
その後、スズカマンボで春の天皇賞(GⅠ、2005年)、スズカフェニックスで高松宮記念(GⅠ、07年)を制した児玉が、13年から担当したのがスズカデヴィアスだった。
「デビュー前に担当になってすぐに重賞を狙えると感じました」
デビューした同馬は皐月賞(GⅠ)、そしてダービー(GⅠ)にも駒を進めた。
「またダービーに連れて来てもらえて、感謝しかありませんでした」
育成時代からの付き合い
それから1年後の15年にトレセン入りしたのが橋田宜長だ。スズカデヴィアスは厩舎の“先輩”にあたるわけだが、特別な思い入れのある“同期”でもあった。同馬は、デビュー前に岩手県にある遠野馬の里という施設で育成されていた。その時、橋田は丁度そこで働き出した。そして、同じ頃、当時「スズカローランの2011」と呼ばれていたスズカデヴィアスが牧場に来たので、担当をしたのだ。
「僕が遠野で働いたのは東日本大震災で被災した丁度1年後からでした。ここからダービー出走馬が出たのは初めてで、デヴィアスは牧場の皆にとって心の支えになっていました」
そう語る橋田は更に続ける。
「自分が未熟だったので、デヴィアスには逆に教えられてばかりでした。だからトレセン入り直後は児玉さんが相当、苦労されたと思います」
そう言われた児玉だが、入厩当初のそんな苦労はほんのひと時のモノ。長い付き合いが待っていた。
「なかなか勝てず、ダートに使った事もありました。それが7歳でついに重賞勝ち(18年、新潟大賞典)をすると8歳でも勝ってくれました(19年、巴賞)。本当に頭の下がる想いでした」
オーストラリアへ遠征
しかし、本当の意味で頭が下がるのは更にこの後だった。19年の秋、スズカデヴィアスは長期にわたるオーストラリア遠征を決行。10月のコーフィールドS(GⅠ)を皮切りに翌20年3月のモーニントンCまで半年以上現地に滞在し、計6戦をこなしたのだ。児玉は言う。
「体重が一気に30キロ減ったり、喉の手術をしたりと、長期滞在の間に幾度も苦しい思いをさせてしまいました。年齢的にもよく耐えて頑張ってくれました」
長期遠征のからくりを語ったのは橋田だ。
「新しい形の前例のない遠征でしたけど、実は種牡馬入りの道を探っていました」
同じ年、橋田はディアドラで英国に遠征。長く滞在してヨーロッパを転戦するうちに、海の向こうで日本の種牡馬に興味を持つホースマンが多数いる事を実感した。
「日本の種牡馬レベルが上がっているのは間違いなく、外国の人達にもあちこちで質問をされました」
日本だと種牡馬入りが容易ではないため、海の向こうへ渡ったのだ。
「実際、南米やニュージーランド、アイルランドからも興味を持ってくれる声が届いていました」
そんな折り、新型コロナウィルス騒動が世界を駆け巡った。橋田は続ける。
「コロナで見通しが立たなくなりました」
急きょ遠征を切り上げる事になった。児玉の弁。
「帰国する飛行機もどんどん飛ばなくなったので、とりあえず馬だけを置いて慌てて帰る形になりました。ギリギリまで付き添ったけど、心配でした」
そのうち馬を運べる飛行機も減便となり、他国での種牡馬入りは一旦立ち消えに。
「仕方なく一度、日本へ戻す事になりました」と橋田。結果、児玉より2ケ月ほど遅れてスズカデヴィアスは帰国した。
唐突に訪れた別れの時
帰国後、スズカデヴィアスは障害入りし、児玉は担当を外れた。結果的に彼はこれを強く後悔する事になった。
「僕は障害馬の経験がなかったので、慣れている人がやる事になりました」
だから6月6日の競馬は家のテレビで観ていた。障害のオープンに出走したスズカデヴィアスが丁度大映しになった時、ガクンと躓いたのが分かった。その瞬間「ヤバいな……」と感じた児玉は更に次のように思ったと言う。
「あの感じだとかなり厳しいと思いました。何とか無事でいてほしいと祈ったけど、正直、かなり厳しいと思ったんです」
橋田も似た想いを抱いていた。
「止まり方からして軽症でないと思いました。後はとにかく命だけでも助けてあげてくださいと祈りました」
しかし、そんな祈りは届かなかった。まずは児玉が言う。
「1時間後くらいに現在の担当者からLINEが入り『残念ながら……』と記されていました。覚悟はしていたけど、言葉を失いました」
「現場は大変な事になっていると思い、こちらからは連絡をしなかった」という橋田は、ニュースで最悪の結末を知った。
「牧場時代から関わらせてもらって、これからも見守ってほしいという想いがあったので、言葉がありません」
そう言うと、様々な思いが湧き出るように口をついた。
「オーストラリアでは現地の多くのホースマンに助けてもらいました。また、遠野に放牧で度々戻って来ては全国の重賞で活躍してくれた姿は、遠野の方達を力強く引っ張ってくれていたように思います」
その遠野馬の里では「記念碑を建てようか」とか「新しく出来る坂路をデヴィアスヒルという名にしようか」と言った話も出ていると言った後、呟くように続けた。
「個人的に何か記憶に残る形にしてもらいたいという気持ちでいっぱいです」
そして、最後に言った。
「痛い思いをさせてしまってごめんね。今はそれだけを伝えたいです」
同じ気持ちを話したのが児玉だ。
「ずーっと頑張ってくれたのに、最後の最後で辛い思いをさせてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいです」
これまではたとえ大きく負けても厩舎には無事に帰ってきた。しかし、今回、戻ってきたのは小さな包み一つだった。
「蹄鉄とタテガミが入っているのでしょうけど、まだ開けていません」
変わり果てた姿を見るのがしのびないという心境が窺えるセリフを言った後、更に続けた。
「苦しい思いばかりさせてごめんという気持ちと、沢山の思い出をありがとうという感謝の気持ちしかありません。今はゆっくりと休んでほしい。それだけです」
芝もダートも走った。国内ではJRAの全10場を走破した。そればかりかオーストラリアにも長く滞在し、6戦にわたって競馬をした。そして、最後は障害まで飛んだ。ダービーにも中山大障害にも出走した。51戦のキャリアで7勝。ゴールに辿り着けなかったのは最後の1戦のみ。そんな記録を残し、星となったスズカデヴィアス。しかし、彼が残したのはそれだけではない事が、2人の男の言葉からもよく分かった。今はただどうか安らかに眠っていただきたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)