映画『ベッキー、キレる』は、いろいろ間違っている!(ネタバレ)
「もし『Becky2』ができるとしたら、殺人鬼の彼女で続編が作れそうだ」と、4年前に前作『BECKY ベッキー』を見た時に書いた。
だが、続編『ベッキー、キレる』のベッキーは殺人鬼になっていない。ちょっと捻くれた不良少女という感じにスケールダウンしてしまった。
スケールアップすべきパート2がこれでは期待外れもいいとこだ。
※前作『BECKY ベッキー』の批評はここ。
日本のベッキーとは違う。スプラッター映画『Becky』の主人公の壊れ具合
※以下、ネタバレがあります。白紙の状態で見たい人は読まないでください。
■殺しの動機を失ったベッキー
ベッキーが殺しのモチベーションを失った、のは理解できる。
前回は殺された父の仇という強い動機があったが、そんなに毎回、毎回ネオナチが襲いかかってくるなんて特別なイベントがあるはずがない。それに、もう守る家族もいないのだ。
『ベッキー、キレる』のベッキーにはキレる理由が見つからなかった。なので、「社会の敵」を無理矢理、敵にするしかなかった。私憤を失ったので、仕方なく公憤を殺人の動機にしようとした。
これがもう大間違いだ。なぜならベッキーの敵が社会の敵であれば、ベッキーは「正義の味方」になってしまうからだ。
前作のベッキーは、ネオナチを血祭りに上げることで狂気が解放された殺人鬼予備軍だったのに、今作のベッキーはより良い社会実現のために殺す、必殺仕置き人になってしまった。
スプラッターの女王に育つ可能性のあったアンチヒロインを、ちょい悪のヒロインにしてしまった。こんなキャラクターの改悪で前作のファンが付いていけるわけがない。
■かつての殺人鬼も今は世直しの人に
敵のスケールダウンも酷かった。
前作の脱獄犯のネオナチから、今作は村のチンピラへ。まあ、「社会の敵」にする必要上、女性を敵視する男たち(インセル)で、女性嫌悪やアンチ・フェミニズムといった政治的信条を背負ってはいるのだが、しょせんチンピラはチンピラである。
とって付けたように「全米有数のテロ集団」なんて説明していたけど、全然、強くないし怖くないし残虐でもない。
こんなのベッキーが手を汚すまでもなく、警察に通報すれば終わりでしょ?
それ以上に、なんでベッキーがフェミニズムのために戦わなきゃいけないのよ?
■コスチュームが象徴するキャラの混乱
13歳だったベッキーが16歳になってしまったのも大きなマイナスだった。あのあどけない天使のような少女が凶暴なネオナチを血祭りに上げる、というギャップが前作の面白味だったが、それが失われた。
未成年とはいえ、思春期を経て大人になろうとしている女性が人を殺しても、単なる殺人犯になるだけ。そこにはなんの意外性も不自然さもない。『ホーム・アローン』の主人公が8歳でなく16歳だったら、泥棒からの守りはより万全だったろうが、そんなお話は映画にならない。
ベッキーは大人になってしまった。
アクション時のキレも失われた。思春期を迎え体が丸みを帯びたのがマイナスになっているようだ。
ウサギちゃんの被り物は似合わなくなったので、赤いツナギを着せたのだろうが、ウサギちゃんのような普段着ではなく「戦闘コスチューム」なので、物語的に説明する必要があったのに説明を放棄。
結果、まるで殺人鬼のパロディのように、赤いツナギとサングラスはコミカルに浮いていた。
いっそ、彼女が働くドライブインの制服、極度に女らしさを強調したピンクのドレスを血まみれにしたら、アメリカ的なものへの皮肉となって良かったのではないか。
『ベッキー3』なんて作られてほしくないが、その伏線はちゃっかり用意されていて、やっぱり正義の味方路線だった。あ~あ。
※写真提供はシッチェス・ファンタスティック映画祭