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楽天・石井一久GM兼監督誕生で思い出すメジャーリーグGMの「次期監督は私です」

菊田康彦フリーランスライター
2017年の野球殿堂入り式典出席のため、クーパーズタウンを訪れたハーゾグ(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 一座はシーンとなった。「その次期監督は私です。私は来季、ゼネラル・マネジャーと監督を兼務します」──新聞記者はしばしアゼンとなった。

出典:「1980年度米大リーグ総集編」(ベースボール・マガジン社)

 今から40年前のこんなくだりを思い出したのは、東北楽天ゴールデンイーグルス石井一久取締役ゼネラルマネージャー(GM)が、来季からGM兼任で監督に就任することになったからだ。

GMとして自らを新監督に指名した「名将」

 1980年、セントルイス・カージナルスはナ・リーグ東地区6球団中4位ながら、代行を含め4人の監督が指揮を執るなど迷走していた。シーズンが終わり、ホワイティ・ハーゾグGMが開いた新監督発表会見。そこで飛び出したのが、冒頭の発言だった。

 ハーゾグにはカージナルスGM就任以前に、メジャーリーグで豊富な監督経験があった。1973年に41歳でテキサス・レンジャーズの監督となったのを皮切りに、カリフォルニア(現ロサンゼルス)・エンゼルス、カンザスシティ・ロイヤルズの監督を歴任(エンゼルスでは監督代行)。ロイヤルズでは3年連続でア・リーグ西地区優勝も果たし「名将」と謳われた。

 1979年限りでロイヤルズ監督の座を追われると、この1980年はケン・ボイヤー監督(元大洋ホエールズ、クリート・ボイヤーの兄)の解任を受け、6月からカージナルス監督に就任。8月には元監督であり、当時はコーチだったレッド・シェインディーンストにバトンを渡し、自身はGMに転身した。

 1981年からGM兼監督となったハーゾグの下、カージナルスは勝率ではナ・リーグ東地区1位ながら、ストライキによって2シーズン制となったあおりで前期・後期とも2位。翌1982年、カージナルスはシーズン200盗塁という機動力を柱にワールドチャンピオンまで上りつめるのだが、ハーゾグは開幕からGM職を退き、監督に専念していた。

 当時のメジャーリーグでも、GMが監督を兼務するというのは異例ではあったが、まったくなかったわけではない。1980年には、その3年前にニューヨーク・ヤンキースで“世界一”に輝いた人気者のビリー・マーティンが、オークランド・アスレチックスのGM兼監督に就任。1982年までこれを務めた。

フィリーズはオウエンスGM兼監督でリーグ制覇

 ハーゾグのようにGMとして自らを新監督に起用したのが、1972年、83年のポール・オウエンス(フィラデルフィア・フィリーズ)、そして1988年のジャック・マキーオン(サンディエゴ・パドレス)である。

 オウエンスは現役引退後にマイナーリーグの監督やフロントを務め、1972年にフィリーズGMに就任。それまでメジャーリーグでの監督経験はなかったが、7月にフランク・ルケーシ監督を解任すると、自らが新監督となった。ただし、これは低迷するチームの現状を、現場レベルで把握するためだったとも言われている。

 翌年から再びGM業に専念したオウエンスは、1983年7月にはチームが貯金1ながらナ・リーグ東地区首位に立っていたにもかかわらず、パット・コラレス監督を解任。自ら監督を兼務して11年ぶりにユニフォームに袖を通すと、最後は貯金を18に増やしてチームに地区優勝をもたらした。さらにプレーオフでは西地区優勝のロサンゼルス・ドジャースを破り、球団史上4度目(※)のワールドシリーズ出場も果たしている。

 一方、1980年の途中からパドレスGMに就任し、積極的にトレードを仕掛けることから「トレーダー・ジャック」の異名を取ったマキーオンは、ロイヤルズ時代のハーゾグの前任監督。アスレチックスでも2シーズンにわたって監督を務めた経験があった。

 そのマキーオンは1988年5月にGMとしてラリー・ボーワ監督を解任し、アスレチックス時代以来、10年ぶりの監督業に復帰。借金14のチームを立て直して貯金5の3位まで持っていくと、翌1989年はナ・リーグ西地区の2位に躍進する。だが、1990年は優勝争いに絡めないまま7月に監督の座を降り、シーズン終了後にはGM職も解任されてしまった。

日本ではソフトバンク王貞治監督がGMを兼務

 ハーゾグの時代でもGMと監督を兼務するのは容易なことではなく、冒頭の会見では元ニューヨーク・メッツGM補佐のジョー・マクドナルドを自身の特別補佐として起用し、決定権は自らが持つものの、トレードや契約の仕事は任せると発表している。ただし、GM職が多忙を極める現代のメジャーリーグでは、監督との兼務は事実上、不可能だろう。

 日本では1993年に福岡ダイエー(現福岡ソフトバンク)ホークスの監督になった根本陸夫が代表取締役専務兼務で編成権も握っていたが、当時の日本には「GM」という肩書はなかった。1995年に、ヤクルト(現東京ヤクルト)スワローズ、西武(現埼玉西武)ライオンズで日本一監督になった実績を持つ広岡達朗が、千葉ロッテマリーンズで日本初のGMに就任。ダイエーがソフトバンクに生まれ変わった2005年には、王貞治監督が日本で初めてGM兼任となった。

 現在は日本でも半数の球団がGM制を敷くまでになったが、GMが監督を兼務するのは今回の石井が初めて。果たして石井GM兼監督の手腕やいかに?

(文中敬称略)

(※)初出時に誤りがありましたので、修正しました。

フリーランスライター

静岡県出身。小学4年生の時にTVで観たヤクルト対巨人戦がきっかけで、ほとんど興味のなかった野球にハマり、翌年秋にワールドシリーズをTV観戦したのを機にメジャーリーグの虜に。大学卒業後、地方公務員、英会話講師などを経てフリーライターに転身した。07年からスポーツナビに不定期でMLBなどのコラムを寄稿。04~08年は『スカパーMLBライブ』、16~17年は『スポナビライブMLB』に出演した。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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