「リベラル」の逆は「保守」ではなく…歴史に耐えるものさしで、中島岳志さんと現代日本を読み解く政治学
衆議院解散後、マスメディアでは「リベラル」「保守」という2つの言葉をよく目にする。公示直前に新党が相次いででき、その位置づけを明確にしようという意図があるのだろうが、言葉の使われ方や解説には、どうもピンとこないことが多い。今回の選挙が、「3極対決」「三つ巴」などと表現されたのにも疑問を感じた。
長らく保守政党と見られていた自民党だが、保守派論客から「安倍政権は保守ではない」との指摘も相次ぐ。では、「保守」でないなら何なのだろうか?
立憲民主党を立ち上げた枝野幸男代表は、自らを「保守でありリベラル」と位置づけている。「保守」と「リベラル」は対立概念として使われがちだが、そうではないのだろうか?
さらに、小池百合子都知事は自らが代表となっている希望の党を「寛容な改革の精神に燃えた保守」と称している。なんだか言葉の組み合わせがミスマッチに感じられ、その実がよく分からない。
こうした様々な疑問や違和感を抱えながら、『リベラル保守宣言』(新潮文庫)などの著書がある政治学者で東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授の中島岳志さんを訪ね、じっくりお話を伺った。
「リベラル」ってなに?
――「リベラル」というのは、そもそもどういう概念なんでしょうか。ご著書では、キリスト教の宗教改革に起源があるとのことでしたが……。
16世紀の宗教改革以降、カトリックとプロテスタントの対立で、ヨーロッパは二分されます。両者の価値観をめぐる対立から、30年戦争が起きます。その末に1648年、日本で言えば江戸初期の頃ですが、ウェストファリア条約が結ばれます。
――世界史に出て来ましたね、ウェストファリア条約。
これは初めての近代的な国際法で、これで主権国家体制が確立し、戦わないための秩序が作られました。「リベラル」はそういう中で生まれた概念です。
価値の問題で争っていると、血で血を洗う悲惨なことになる。だから、お互いに相手の価値観に寛容になろう、と。そして、自分自身の自由、とりわけ内面的な価値観については国家から干渉されない、という考え方。つまり、「リベラル」の基本は「寛容」と「自由」がセットなのです。
――「自由」だけではない、と……。
はい。ただ、「リベラル」はその後2つの方向に分かれていきます。それをアイザイア・バーリンというイギリスの政治哲学者が、「……への自由」を「積極的自由」、「……からの自由」「消極的自由」と名付けました。そして、後者の「消極的自由」が重要であると言います。権力が個人の内面とか人権とか財産権とかに土足で踏み込んで制約をするのはよくない、という「権力からの自由」です。
一方の「積極的自由」は、みんなの自由を実現するためには、国や権力が個人の領域に介入する必要がある、と考える。たとえば、市場に任せておくと、格差や不平等が生じる。だから、金持ちからいっぱい税金をとって、みんなで分けて、各自が自由を追求するための基礎要件を国が整備するべきである、と。権力が積極的に関わることで、真の自由に到達するという考え方です。これは、福祉国家の実現とか、マルクスの革命とかにつながる。
バーリンは、この「積極的自由」は「自由のパラドックス」に陥る、と指摘しました。自由を求めると言いながら、人々の自由を自由を制限しなければならない。その典型が共産主義。なので、求めるのは「消極的自由」に留めるべきだ、という考えでした。
ただ、「消極的自由」を求め続ければ、「小さな政府」になり、現代的な発展型としては、徹底して規制を緩和し、経済を自由な競争に委ねる新自由主義になっていったり、リバタリアンとなっていきます。現代では、新自由主義経済が進んだ結果、いろんなところにひずみが生じ、格差が広がるグローバル資本主義の問題にぶつかっています。
――どちらも、やり過ぎると問題が生じる。
そうなんです。だから、真ん中の均衡状態を考える。バランスのとれたもの。それが、保守的リベラルなんです。
「保守」と「リベラル」の関係
――ただ、「保守」と「リベラル」は対立するものとして語られることが多いですね。
問題はアメリカで、ここが「リベラル=左翼」のイメージを作り出している。アメリカではどちらかというと福祉国家的なサービスをする民主党がリベラルで、個人の自由を重視する共和党が保守という二項対立だとされています。
日本は、90年代以降に、この枠組みを踏襲し始めたんですね。ソ連の崩壊、冷戦の終了で、「左」は自分たちを表象する言葉を失っていきました。「やっぱり共産主義はダメだ」となって、「革新」に「時代から外れた人たち」というイメージがついたために、別の言葉を探したんですね。その彼らが飛びついたのがアメリカの枠組みで、「保守」に対する「リベラル」だった。
それまでは、保守の方が「自分たちがリベラルだ」と言っていたんです。ソ連や中国は全然自由がない、本当の自由主義者は西側陣営である我々である、と。だからこそ、自由民主党Liberal Democratic Partyなんですね。ところが、左派が「リベラル」と言い始めた頃、保守も同じくアメリカの枠組みを使って、「我々は保守だ」と言うようになった。そして、共和党的な「小さな政府」の方向に変容していきます。
――表象だけでなく、中身も変わっていった……。
かつての自民党政府は、どちらかというと大きな政府でサービスをちゃんとやります、というものでした。しかし、そのやり方に問題があった。ムラ社会的ヒエラルキーを使った裏金とか、業界団体を使って金を配るとか……。そういう不公正な再配分によって日本は成り立っていて、自民党はその再配分に強い政党でした。それを批判され、政治改革の必要性を叫ぶ論者が現れ、自民党も橋本内閣の頃から、規制緩和、構造改革、行政改革に力を入れるようになります。そして、日本は大きすぎる政府だ、個人に任せるべきだ、という「自己責任論」の方に傾斜していきました。
――そして小泉さんが登場するわけですね。
そうして「消極的自由主義」を進め、新自由主義を押し進めていくと、どうなるでしょうか。
自己責任で自由を与えられていくと、人々はどんどん孤立し、孤独になっていく。そうすると、人は不安になる。その結果、強いリーダーに引かれて権威主義者に飛びついていく。これがナチスで起きたことだと、E・フロムが『自由からの逃走』で指摘しています。自由を与えられたゆえに、人々は自由から逃げて行く、という逆説的現象です。
――――「消極的自由主義」にも「自由のパラドックス」はあるわけですね。
新自由主義ではこれが起きやすい。全部「自己責任ですよ」と言われると、人は不安になるので、ズバッと言ってくれる、断言してくれる権威主義的パーソナリティに流れやすいんです。リベラルを捨ててパターナリズムに陥ってしまう。橋下現象がその典型ですね。
つまり、「消極的自由主義」も「積極的自由主義」も、過剰になると自由を捨ててしまうという逆説になる。だから、保守というのは、その均衡を保とうとするわけです。
20世紀、保守の人間は、共産主義とか全体主義について「上からのコントロールによって、未来を設計的に作ろうとする左派思想である」と批判してきました。それで自由を保護してきたんです。
ただ、「自由の過剰」というものに対して、保守はブレーキを踏もうとします。それは「積極的」にしろ「消極的」にしろ、行き過ぎると、クルッと反転して、パターナルな、つまり上からの押し付けになってしまう。これはよくない。だから、バランス感覚を大事にするのが、保守的なリベラルのあり方。「保守」vs「リベラル」ではないんです。
「保守」ってなに?
――そもそも「保守」とは何でしょうか。
保守は、エドマンド・バークというイギリスの政治思想家から出て来た思想潮流です。彼は、『フランス革命についての省察』という本で、フランス革命を批判します。「そもそも人間観がおかしい」と言ったんですね。
――人間観とは?
フランス革命を支えた左派的啓蒙主義は、人間の理性を無謬の存在、つまり間違いのないものだと考え過ぎている、と。つまり、合理的なことを進めていけば、世界はいい方向で進歩し、やがて理想的な世界を作ることが可能である、という設計的な合理主義です。だから、みんな革命とかやってがんばろうぜ、というイデオロギー。
これに対して、「しかし、人間というのは間違いやすいものだ」とバークは言ったんですね。どんなに頭がいい人でも、世界全体を過不足なく把握することはできないし、間違えることはある。どんなにいい人でも、一切のエゴイズムや嫉妬心などから解放されているわけでもない。「人間は知的にも倫理的にも不完全な存在として、過去現在未来にわたって存在している。そういう人間が作る社会は、やっぱり不完全なんじゃないですか」とバークは問いかけました。
革命ではなく「永遠の微調整」を
――では、理性でなく、何に依拠して社会をつくっていけばいいと?
バークはこう考えました。頭のいい1人が書いた設計図とか思想よりも、多くの無名の人たちが長い時間をかけて紡ぎ上げてきた経験知であったり良識、それは伝統や慣習として姿を現すものですが、そういうものにまずは依拠してみるのが重要じゃないか、と。
しかし、過去の人間も、今の人間も不完全である。しかも、世の中はどんどん変わっていく。50年前にはいい福祉制度でも、今は人口構成が違うとなれば、そのままでは意味をなさない。やっぱり変えていかなきゃならない。だから、大切なものを守る(保守する)ために、現状に合わせて変わっていかなきゃならない、とバークは言います。
ただし、それは左派の革命のように、「これが正しい答えです。この通りにやって下さい」と言うのではなく、歴史の中の様々な叡智に耳を傾けながら、徐々に変えていく。つまり「永遠の微調整」です。漸進的な改革を常にやり続けていくのが保守的な世界認識だ、と。
だから、特定の人間の設計図に基づいて、急進的に理想社会を作ろうとしたフランス革命には必ず反動がくる、と彼は予言しました。混乱が生じ、人々が権威主義的な人間に飛びついて、独裁的な政治が生まれるだろう、と。実際にその通りになりました。
ナポレオンの登場です。生活の秩序を奪われた時、人々は不安になって「断言」に頼っていく現象が起きました。
だからこそ、変えていくのは徐々にでなければいけない、劇薬は反動を産み出す。これが保守の考えです。
「永遠の過渡期」を生き抜く知恵は
――「断じて変えない」「古いものにしがみつく」わけでもない、と。
そうです。よく保守は「復古主義」と誤解されます。昔に戻れと言っているように勘違いされる。しかし、これは違います。なぜなら、昔も不完全な人間がやっていたわけですから、間違いもいっぱいやっている。だから、復古主義はとれない。
2つ目に、保守は「反動だ」とも言われるんですね。けれども、保守は現状にしがみつくわけではないんです。それは、僕たちが不完全だからです。歴史の叡智に照らしながら、徐々に改革をしていきましょう、と。なので、「反動」という立場はとれません。
3つ目に、「進歩」というのもとれない。それは、未来の人間も不完全で問題を起こすからです。左派が言うように、理性的になればいい社会ができるという進歩主義はとれない。
小林秀雄は「永遠の過渡期」と言っていますが、ずーっと過渡期の中を僕らを生きている。それを生き抜く知恵は、慣習とか伝統の中に埋もれた庶民の良識ではないか。普通の人たちが持ってきたコモンセンスではないか。
本当の「保守政治」とは
――そうした保守の政治の特徴は何でしょう。
保守は、「こうすれば必ずうまく行く」という左派的な思想はとりません。だから、丁寧に合意形成をしていくんですね。なぜかというと、保守政治家には「自分も完全ではない」という認識がある。間違っているかもしれない。だから、いろんな人たちの意見を聞いてみよう、と。少数者の意見に「なるほど」と思えば、その意見を反映して合意形成をしながら一つ一つやっていく。これが伝統的な保守政治家のスタイル。だから、「議論」とか「対話」を重視してきた。
僕が尊敬している大平正芳(元首相、故人)は、「政治は60点じゃないといけない」と言っています。いろんな人の話を聞きながら、60点くらいに収めるのが、実は一番正解に近い、と。だから彼は社会党や共産党の話も聞いて合意形成をしていった。その方が、相手も納得して秩序が安定的に続くだろう、という考えたんですね。
――今の自民党とはずいぶん違いますね。
そう考えていくと、果たして安倍さんは保守なんだろうか。国会を議論の場と考えず、言い勝てばいい、というのは、保守の態度ではない。安倍さんは、中国を嫌っているようですが、安倍さんと中国共産党は両方ともリベラルから遠いという点では、実は似ている。
保守は自己に対する懐疑もあってリベラルな態度をとるんです。実は、保守とリベラルは大変相性がいい。
「リベラル」の反対語は
――今の自民党は「保守」でないとすると、何なのでしょう。
「リベラル」は、個人の内面の問題について国家が踏み込まないのが基本。その反対語は「保守」ではなく、「パターナル」です。権威主義ですね。故人の内面に直結する価値観の問題を、「日本人ならば、こうあるべきだ」「この問題はこう考えなければならない」といったように、上から決めていく。
今の自民党政権は、権威主義的でかつ小さな政府です。90年代以降の改革によって、日本はすでに「小さすぎる政府」になっています。租税負担率も低いし、全GDPに占める国家歳出の割合、つまり全経済活動の中でどれだけ国家が関与しているかという数字も小さい。公務員の数も少なく、人口1000人当たり40人くらいしかいない。アメリカは70人くらいです。ヨーロッパに行くと、80人とか90人とかいる。日本は、すでにアメリカより小さな政府なんです。
――公務員が多すぎるから、もっと減らせと言っている政治家もいますが…。
地方では公務員が足りず、非正規労働で埋めて、官製ワーキングプアみたいな現象も起きている。経験知がちゃんと伝わっていないために、災害に弱い行政になってしまっている問題もあります。
今回の選挙は「三極対立」ではない
――ところで、今回の選挙では「三極の対立」とメディアは盛んに言いましたが、釈然としません。
希望の党は、自民党とは別の軸を立てると言いながら、実は同じなんです。小池さんは生活保護に厳しく「自助が大切」という考え。歴史認識なども含めて、明らかにパターナルです。自民党に対抗する二大政党と言うなら、相関図の別のところに軸を立てなきゃいけない。なのに同じところにいるからワケが分からなくなっている。”all for all”と言いながら、自己責任。しかも小池さんのトップダウン。だから、国民には別の選択肢に見えない。そのうえ維新も同じところにいる。
逆に、うまく対立軸を作ったのは、立憲民主党です。理性に対する謙虚さを持つ保守を打ち出しつつ、セーフティーネットを構築していこうというリベラルですから。
――「リベラル」の反対語が「パターナル」なら、「保守」の反対語は何でしょう。
一言でいえば、「革新」でしょうね。
――安倍さんは「革新」……。
そうでしょう、「革命」とか言っていますからね。いろんなことに反対して、変えないという点では、むしろ共産党が保守的。TPP反対して農家を守れとか、中小企業をちゃんと保護しろとか、保守的な主張そのものです。
単純化と断言を導くテレビ
――最初にリベラルの基本は「自由」と「寛容」だという話がありましたが、「リベラルは正義を振りかざして不寛容だ」という批判もあります。リベラルを標榜する方々に、私自身もそれを感じることがあります。
それはまさに「積極的自由」のパラドックスです。リベラルが行き過ぎて、「これが正しい自由だ」というパターナルな態度になってしまい、他者の自由を抑圧していくパターンですね。
例えば原発反対運動。僕も原発反対なんですが、反対運動のやり方に異を唱えると、すごいバッシングが来ます。何回か炎上した。デモでも、非暴力と言いながら、言葉はすごく暴力的だったりしますね。
――その一方で、「保守」と自称している人が、すごく攻撃的なのも気になります。「保守」はもっと包容力があったはずなのに……。
95年くらいを境に、不安が蔓延し、人々が「断言」を求める傾向が強くなっているように思います。
テレビの司会者もみのもんたとかやしきたかじんとか、断言しながら進行していく人が出て来て、すごく感情を煽るような番組になっていった。その前のワイドショーでは、『ルックルックこんにちわ』とか、岸部四郎がゆるゆると司会をやってたんですがね。
90年代後半にNHKでリサーチャーのアルバイトをしていたことがあります。『その時歴史は動いた』という番組に関わっていました。でも、歴史を勉強してきた者からすれば、「その時歴史は動いた」りしないんですよ。何月何日に歴史が動いた、みたいにするのは違う。テレビは「分かりやすさ」と「単純さ」の区別がついてないんですね。本来「分かりやすさ」とは、丁寧に説明することだと思うのですが、「それでは(視聴者に)受け入れられない」と言うわけです。
田原総一朗さんの手法も「イエス・ノー」ですよね。田原さんはカメラが回ってないところではいい人なんですが…。『朝まで生テレビ』って、断言をし合う番組ですよね。あれを「議論」と言っちゃいけない。あれは「言い合い」。ワーッと言い合って、大声の方が勝ちというゲームです。「議論」というのは、「なるほどあの人が言っていることには理があるな」と思ったら、自分の意見を変えるという態度がないとできない。「保守」が考える「議論」は、そういうものです。『朝生』は、「議論」というものの信用度を失わせた番組だと思うんです。
――「論破する」のが好きな人も増えているのも、そうした番組の影響があるのではないか、と。
そう思います。そういうものに、僕たちはこの20年間、不安の中で心の拠り所を求めてきたんじゃないか。ズバッと言って欲しい。「朝ズバ」っていう番組名には、なるほどと思いました。そういうのに慣らされた結果、橋下現象があり、小池さんが出て来たり、安倍内閣がずっと続いているんじゃないか。それが保守と呼ばれることに、僕は苛立ちを覚えます。
目指すべきは…
――まっとうな「保守」「リベラル」を取り戻したい?
そうですね。「保守」と語るなら、ちゃんと「保守」を定義してから言いましょう、と。そして、安倍さんのパターナリズムを疑いながら、左のパターナリズムも疑うのが、庶民の叡智に基づいたリベラルというものだと思います。
アメリカの今の政治に引きずられず、あるいは政党や党首の主張やメディアの解説を鵜呑みにせず、長い歴史に耐えたものさしを手にしながら、今の日本の政治や社会を冷静に見つめる。そして、極端な言説や態度に引き寄せられずに、自分自身の態度を決めていく。その大切さを、中島さんの話からつくづく考えさせられた。