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ヴィッセル神戸の創世記 大震災のその日から、歴史が始まった……その1

楊順行スポーツライター
1995年1月17日、地球の壮大な営みに人はあまりに無力だった(写真:ロイター/アフロ)

 あの日から、ちょうど26年がたとうとしている。1995年1月17日、阪神淡路大震災から、だ。そして……この日は、前年9月にJリーグ準会員となったプロサッカークラブ、ヴィッセル神戸が初めての練習を開始する「はず」だった。

 サッカーは門外漢。だがこの年は、前年に設立されたヴィッセルの、J1昇格へのプロセスを追いかけるつもりだった。そして、練習2日目の18日、1回目の取材を行う手はずになっていた。だが、未曾有の大災害である。そもそも広報担当との電話さえつながらないし、とても取材どころではない。現地を訪れたのは、2週間ほどあと。徐々に復興へ歩き出していたとはいえ、巨大な怪獣に蹂躙されたような町に言葉を失った。

レストランの片隅からスタート

 ヴィッセル創設までの経緯を、当時の取材をもとにおさらいしておく。93年にJリーグがスタートすると、「ぜひ、神戸にも」という気運が高まり、「神戸にプロサッカーチームをつくる市民の会(通称オーレ・KOBE)」が生まれた。中心となったのは、神戸のサッカーフリークのたまり場であるチリ料理店『グラン・ミカエラ・イ・ダゴ』の常連たちだ。

 オーレ・KOBEはすぐさま、約24万人もの署名を集め、神戸市側に手渡した。市側も実は、同じタイミングで、岡山県倉敷市に本拠を置く川崎製鉄サッカー部の譲渡を申し入れていた。となると、話はとんとん拍子。94年6月には運営会社「神戸オレンジサッカークラブ」が設立された。筆頭株主はスーパーのダイエーである。

 チーム名は、市民の公募でヴィッセル=VISSEL。VICTORY(勝利)と、VESSEL(船)を合成した造語で、「"新たな神戸の港"から日本全国へ、そして世界へ出航したいと考えます」(当時のファンクラブ入会の案内より)。

 だが出航してみるとそこは、とてつもない荒海だ。選手たちの多くはすでに、新天地に胸を弾ませて神戸に集まっている。母体である川崎製鉄出身者は、震災前日の16日、寮への入寮式と関係会を開いてもらったばかりだ。副主将に指名された奥井雄二からは後日、こんな話を聞いた。

「僕は1月12日には寮に入っていたんです。プロ契約もしたし、さあ、練習開始だと気を引き締めたところにあの地震……練習どころではありません。まず、神戸にいる連中の安否を確認しようにも、電話が通じない。なんとか夕方までには神戸にいた全員が無事とわかり、会社の指示で倉敷に向かったのが夕方5時くらいでした。取るものも取りあえず、車4台に15人ほどが分乗しましたが、着の身着のまま。途中、本拠地になる神戸ユニバーの脇を通ったときは、"これなら大丈夫かな。試合ができるかも"なんてのんきに話していたんですけど、被害の状況がわかってくるにつれてゾッとしました。命があっただけでありがたい……」

段ボールに囲まれたJリーガー

 監督には、サンフレッチェ広島を率いていたスチュワート・バクスターの就任が決まっていた。そのバクスターの秘蔵っ子で、サンフレッチェに在籍していた田中哲也は、口説かれて移籍を決断。ちょうど"あの日"が、広島からの引っ越しの予定だった。当時、その田中にも話を聞いている。

「段ボールに荷物を詰めて、あとは運ぶだけでした。たまたま目覚ましを早めにセットしていたら、ニュース速報……どうしたらいいか、途方にくれましたよ。チームにも、新居を斡旋してくれた不動産屋さんにも連絡はつかないし、結局広島に残ってトレーニングをするしかありません。でも、神戸のことばかりが気になって……ふだんは見ないニュースに、三日三晩かじりつきでした。ただ、引っ越し準備で部屋のなかは段ボールだらけ。Jリーガーといっても、コンビニで食料や紙コップを買ってきての生活でした」

 その後のチームの動きを整理する。川崎製鉄出身者は、倉敷の寮に避難して18日から、移籍組は、田中のように各自がツテをたどって自主トレを開始。チーム全員がケガもなく無事、と確認できたのは、震災から3日後の20日で、温暖な地でキャンプを行う構想などはむろん、自然消滅だ。なんとか倉敷に全員集合して練習できたのは、2月6日のことだった。

 だが、地震のトラウマは後を引く。「しばらくは、となりのドアの開閉音にもビクッとしていた」(奥井)状態では、練習もどこか集中を欠くだろう。ただ、ファクスなどで神戸市民からの激励が届き、イレブンは少しずつだが、元気を取り戻していった。

 いまでは19年に天皇杯、20年にはFUJI XEROX SUPER CUPを制し、イニエスタらのスターも在籍する人気クラブとなったヴィッセル。だが……その出航はさらに、座礁寸前までほんろうされることになる。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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