【深読み「鎌倉殿の13人」】文覚と全成は、本当に激しい読経バトルを演じたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の13回では、文覚と全成が激しい読経バトルを演じていた。これが事実だったのか、深く掘り下げてみよう。
■ドラマの振り返り
源頼朝が平家と対峙している頃、東北で隠然とした勢力を誇っていたのが藤原秀衡である。頼朝は秀衡がいると軍事行動をとれず(出陣したすきに鎌倉に攻め込まれる)、「何とかならんのか」とぼやく。
弟の全成が懸命に祈禱をしているが、それでは不十分で、頼朝は「ほかに(僧侶は)おらんのか!」とまたぼやく。すると、北条義時が「平清盛を呪い殺した僧侶がおります」ということであらわれたのが、文覚である。
かつて文覚は、物乞い同然の姿で源義朝(頼朝の父)の髑髏を首から下げていたが、今や真っ赤な僧衣を身に付け、すっかり見違えていた。
文覚は頼朝の前に姿をあらわすと、すぐに全成が読経をしている部屋に直行し、その隣で大きな声で読経した。
全成も負けじと大声でお経を読むと、文覚もヒートアップ。全成の妻・実衣も夫を応援すべく大声で読経し、お茶の間は大爆笑という具合である。
しかし、この話は決して嘘ではないのである(半分くらいはホント)。
■文覚が藤原秀衡を調伏をしたのは事実
『吾妻鏡』養和2年(1182)4月5日条には、文覚が藤原秀衡を調伏(怨敵、敵意ある人などを下すこと)をした記事がある。
この日、頼朝は腰越(神奈川県鎌倉市)を出発し、江の島(同藤沢市)へと向かった。頼朝には、多くの豪族が随行した。むろん、これには理由があった。
文覚は頼朝の要請により、江の島の弁才天で供養法を行うことになっていた。供養法とは、密教で仏・菩薩・天部などの諸尊や経を供養するためにする行法のことである(『大辞泉』)。
それを端的に言えば、当時、鎮守府大将軍だった藤原秀衡を調伏することだった。ただし、『吾妻鏡』には「激しい読経バトル」のことは書かれていない。それは、単なる創作である。
今となっては呪い殺すなどは、まったくの迷信であるが、当時は神仏の力で調伏することは珍しくなかった。頼朝は東北に攻め込むのは大変だったので、とりあえず神仏の力にすがったのだろう。
■むすび
文覚と全成、そして実衣の読経バトルはなかったが、文覚が藤原秀衡を調伏したのは事実である。大河ドラマはフィクションなので、こうしたお遊びも楽しくていいだろう。