『お母さん、娘をやめていいですか?』チーフ演出・笠浦友愛インタビュー(後編)取材から生まれること。
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インタビュー後編は、笠浦友愛さんが過去に担当した『2030かなたの家族』、『ご縁ハンター』といった過去作や、ラジオドラマ『100円の新世界』についての話。演出としての仕事やテレビドラマを作ることに対する想いについて伺いました。
『お母さん、娘をやめていいですか?』チーフ演出・笠浦友愛インタビュー(後編)
――『2030かなたの家族』『お母さん、娘をやめていですか?』と、井上由美子さんとの作品が続いていますね。
腐れ縁と言ったら怒られますが、いっしょに仕事をすると、お互いにその都度、頭がシャッフルされるんだと思います。
同い年だし、山田太一さんのドラマを筆頭に、思春期に同じドラマ体験をしているので、一緒にドラマを作ると自分の立ち位置を確かめることができますね。同志的な存在です。
むこうががんばってる限りはこっちも弱音を吐けないっていう気持ちはあって、たまに『お母さん~』みたいな難しい作品をやって、お互いに目を覚まそう。と刺激し合うような関係です(笑)
――井上さんは『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』(フジテレビ系)や『緊急取調室』(テレビ朝日系)のような娯楽色の強いドラマも民放では書いてヒットさせていますね。その一方で『かなたの家族』や『お母さん~』も書いているというバランスが絶妙ですね。
僕とやる時はNHKということもあるし、今までやってないことにチャレンジするつもりでやってると思うんですよ。僕もそのつもりだし。
――同じ井上さんの脚本ということもありますが『かなたの家族』(※)は『お母さん~』と、対になっているような作品ですね。
※『2030かなたの家族』(NHK、2015年)2030年の近未来に生きる家族の姿を描いた異色のホームドラマ。出演:瑛太、蓮沸美沙子、松重豊、小林聡美ほか
家族を相対化して引いた目で捉えるいう意味では共通点は多い作品だと思います。
『かなたの家族』はものすごく取材したドラマで、学者やメーカーやシンクタンクの人など様々なジャンルの方に「未来をどう考えているのか?」と聞きに行きました。
感じたのは、家族って、ある種のネックでありウィークポイントでもあるということですよね。
ある家族社会学の先生が「高度経済成長の時に作られた日本の家族主義が諸悪の根源なんですよ」とかなり厳しく断言してました。
それはつまり、テレビドラマが作ってきた家族のイメージとも密接に関わってますよね。
――『かなたの家族』を見た時は、SF版『岸辺のアルバム』(TBS系)だと思って衝撃を受けました。近未来SFモノって事件を描く作品は多いですが、未来の家族の日常をここまで徹底的に描いた作品って、あんまりないですよね。テクノロジーの進化が生活にどんな影響を与えていて老若男女全世代がどう生活しているのかを俯瞰して見せるって中々できないですよね。
ものすごく手間のかかることをやっているんですよ。取材して未来予測をして更にそれをドラマにする時には日常の風景に落とし込んでいくのですが、その作業が。大変で井上さんとも何度も議論をしました。
未来の日常を、普通のことだと受け止めている人々の話にしないといけないので、社会の変化に対して、そこで暮らす人々がどう感じているのかについてはドラマ的な想像で埋めていきました。しんどい作業でしたけど、その経験は面白かったです。
――高齢者の生活の方が最先端のテクノロジーが入り込んでSF的な世界になっているのが、面白いですよね。
こういう未来になる必然性と、人間の気持ちの折り合いを描きたかったんです。お金を持っていることもあって、高齢者の人たちの生活の方が洗練されていくので、ああいう老人だけの未来都市ができる可能性もあると思います。
決してハイテク技術が悪いというわけでなく、老人たちが働ける場を作ろうという試みもあって、そのこと自体は間違ってない。でも、総体として見た時に、未来は私たちが求めている世界になるのだろうかとドラマで仮説を立てようと思ったんです。
――『岸辺のアルバム』は意識されたのですか?
僕と井上さんは同年齢で1961年生まれですので、山田太一さんや向田邦子さんのドラマは思春期のメルクマールとして刻み込まれています。
『岸辺のアルバム』のような時代と向き合うラディカルなドラマを面白いと思ったことが、この業界に入ったきっかけです。だから『岸辺のアルバム』に対する未来のアンサードラマをやりたいというのは僕にも井上さんにもあったと思います。
ただ、山田さんの先を僕達はやらないといけない。『岸辺のアルバム』ではない終わりというものがあるとしたら、どうやれるんだろうか、ということは意識しましたね。
――山田太一さんが描くような疑似家族的な共同体を象徴しているのが、蓮沸美沙子さんが演じる姉の絵美衣が、廃校に作った貧困層のコミュニティだと思うのですが、あそこが若い世代の裏切りによって崩壊してしまうのはシビアだなぁと思いました。
あれもギリギリまで議論しました。
シェアハウスのような共同生活もいろいろ取材したのですが、現実に取材してみるとそう簡単ではないことがわかりました。
変に家族主義にすると息苦しくなるし、いろんな試みがおこなわれているけど決して順調じゃない。
結局、個人個人は違うので俗人的な部分で裏切られていくんですよね。それはちゃんと描きたいと思いましたね。他人同士が疑似家族を作るということは簡単ではないと見えるようにしました。
――お父さんの透(松重豊)のいるニュータウンが過疎化しているというのも面白いですね。
あれは現実に始まっていることですね。
――2020年の東京オリンピックの後、急激に過疎化するのが辛辣だと思いました。
いろんな方に聞いても大体、同じ結論でしたね。2020年までの日本経済は何とか登っていこうとするけど、そこからガクっと「無理した反動が来る」のではないかと心配されていました。
――オリンピック鬱みたいなものが日本中にを覆うということですね。
様々な企業やシンクタンクで働いている方にお目にかかったんですけど、やはり日本の未来を考えながら仕事している人は、意外に冷静だなぁって思いましたね。このまま順調に進むなんて思ってなくて、どこで限界が来てまずいことになるかと、先のことを見据えてますね。
テレビはテレビの真似をする
――笠浦さんはNHKでずっと撮られていますが、ご自身について、どのような演出家だとお考えですか? 『かなたの家族』のような異色作のイメージが強いですけど
意識的に変わったものを作ろうとしてきたわけじゃないです。
ただ、テレビってテレビの真似をしがちだと思うんです。
「僕達はすごく恵まれた時代のドラマやドキュメンタリーを体験していて雛型がある」と以前、是枝裕和さんたちとのシンポジウムで話したことがあるんですけど、その影響で過去の番組の真似をして再生産してしまう。
「自分がテレビの真似をしていないか?」ということはすごく意識しています。
井上さんも他の作品に似てしまうことは、すごく気にしますね。
だからこそ、かき回したり、裏返したりしないといけない。テレビって日常メディアだから、すごく澱みやすいんですよ。
――それこそ尊敬する山田さんの作品でも似てしまうことに抵抗があるのですか?
そうですね。自分の過去作と似てしまうことも抵抗はありますね。
どこかに踏み出していかないと自分も変わっていけないし、テレビもそうじゃないと面白くないと思います。
一視聴者としても、今までと違うものが見たいんですよね。そういう番組に出会えると、テレビって捨てたもんじゃないなぁと思える。
だから、自分の作ったものも「違うもの見たなぁ」って思ってもらえると嬉しいです。
俺達の昔のテレビ体験がそうだったので。山田さんの世代のドラマを見て「こんなものを見ちゃったよ」と、自分の人生観に影響したんんですよね。
テレビは日常のメディアだからこそメッセージを送れるってことがあると思います。
今回も『お母さん~』について、「私のことをやってる」って意見をいただいたのはうれしかったですね。
「よくぞ作ってくれました」と言われた時に、テレビでこそやるべきことだと確信しましたね。「隣にお母さんがいて気まずかった」って意見もたくさんありましたけど(笑)
単なる見世物じゃなくて「あなたたちのものだし、あなたたちのことをやってるんです」と思ってもらえるのがテレビの魅力ですよね。そういう風に受け止めてもらえたらすごくうれしいですよ。テレビって非常にパーソナルなものなんだなぁって思います。
――『かなたの家族』は映画館でかけてもおかしくない作品と思うのですが。例えば映画を撮りたいという気持ちはありますか?
映画は好きですけど、どうしても自分でやりたいとは思わないですね。
テレビで放送されているのをふと見て「あれ? 何やってるんだろう」と思って最後まで見てほしい。
普段はそういう作品を見ない人に最後まで見て感じるものがありました、と言われることが嬉しいです。
日常の中に入っていけるところがテレビの特性なので。
――あんな不思議なドラマがゴールデンで流れた自体が事故的で面白いですよね。ドキュメンタリー番組『2030年 家族がなくなる?』と連動して放送されたってことも含めて。
『かなたの家族』は自分でも好きな作品ですね。
もうちょっとエンターテイメント寄りに作るという選択肢もあったんだけど、どこで踏みとどまるかということに、ものすごく注意深く作りました。
――確かにギリギリの作品ですよね。あれより難しくすると、先鋭的すぎてついていけないですし。ドキュメンタリー色を強めすぎると、ドラマにする意味がなくなりますし。
ドラマだからできる体温で作っています。ドキュメンタリーで未来予測をやると作品が遠くなるけど、こういう人たちがいて、こういう風に思って生きているんだという個人の息づかいの話にすることで身近に思える。ドラマだからできる見せ方だと思うんですよね。
――過去には『七瀬ふたたび』(NHK、2008年)のような超能力者を描いたSFドラマも撮られていますね。先日、ラジオドラマで放送された『100円の新世界』(※)もSFだと思って驚いたのですが、SFに対する思い入れとかあるのですか?
※『100円の新世界』 6月3日にNHK FMで放送されたラジオドラマ。国道沿いの町にある100円ショップの駐車場に突然現れたなぞの光を見た人々が次々と失踪していくという導入部から始まるSF仕立てのドラマ。 出演:瀬戸康史、谷村美月ほか
SFやファンタジーに対して特別な思い入れがあるというわけではなくて、飛び道具を持ち込むことで、現実を相対化して見せるのが好きなんですよ。
『トトの世界』(NHK-BS2、2001年)も突然現れた野生児の話なんですが、野生児と付き合うことによって普通の女の子がどう変わるのかを見せたかったんですよ。彼女が人生を取り戻していく話なんです。
別の仕掛けや事件が現れた時に、今の現実ってこうだったんだという手触りが生々しく伝わる話が好きなんです。
そういう話を繰り返し作っていて『派遣のオスカル~少女漫画に愛をこめて』(NHK、2009年)という作品もそうでした。
派遣社員で少女漫画ファンの三沢勝子(田中麗奈)が、少女漫画『ベルサイユのバラ』(集英社)のオスカルに脳内で同一化することで、自分は何者かということを取り戻していくドラマでした。
だから、ファンタジーが好きってわけじゃなくて「ファンタジーは人間に必要だ」という話が、好きなんです。
ファンタジーってその人の一部で、自分が時々、脳内でオスカルになるってことが勝子には必要なんですよね。
オスカルの声が聞こえるっていう彼女の幻想が、実人生と同じくらいその人そのものなんじゃないかっていうのが好きなんです。
――『100円の新世界』は僕にとっては、リアルだったんですよね。ああいうロードサイトにチェーン店とコンビニと100円ショップしかないような地方都市に住んでいたことが20代の時にあって、やっぱり自分の人生を変えてくれる非日常みたいなものを渇望していたなぁと思い出しました。
UFOがくるかもしれないって気分が日常の捉え方を変えるかもしれないっていう感じが出したかったんです。作家の土橋淳志さんは京都の亀岡に住んでるのですが、彼自身の実感が生かされてます。
イメージとしては岡崎京子の漫画『リバーズ・エッジ』(宝島社)に流れる気分みたいなものはありました。
――確かに郊外の閉塞感を描いているという点では『リバーズ・エッジ』と似ていますね。あの作品も最後にUFOを呼ぼうとしますし。
土橋さんもギリギリ岡崎京子世代で、100円ショップが「平坦な戦場」の象徴なんですよね。あの感性は90年代的なもので、今はマイルドヤンキーじゃないですけど、郊外でも仲間と優しく生きていこうという家族回帰みたいな雰囲気じゃないですか。でも『かなたの家族』をやった時に、本当に答えはそこにあるのか? と疑問に思いました。
「昔の生活に戻ろう」というところが高度経済成長の家族の黄金のイメージに被るんです。それが嫌だったので「戻ればいいって話じゃないよね」と、ひっくり返したかったんです。
今だからこそ岡崎京子が描いていた「世界に唾を吐く感じ」が、必要なんじゃないかと思うんです。今は受け入れられにくい感覚ですけど「こういう世の中なんだよ」とつきつける人も出てくるべきで、そういう感性に立ち戻りたいなぁって思いがありました。
――岡崎京子がウィリアム・ギブソンの詩を引用して「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」と言った時代と較べると、もっと世の中が先に行ってますよね。
現実の方が後追いしていて、こんなもんじゃないってなっていって問題が見えにくくなってますよね。
それで、こういう人生で別にいいんじゃないってのがある種の集団圧力になってますよね。
――主人公の気持ちが凄くわかるというか、気持ちが揺さぶられたんですよね。
「逃げてもいいじゃん。捨てられるものは捨ててもいいんじゃないか」というテーマが共通しているかもしれません。
家族が仲良くないといけないというのが集団圧力になっているとしたらマズイですよね。
家族や故郷が自明のもので、そこから落ちこぼれる人間の方がおかしいってなるといろんな自由を奪うことになるんじゃないかと思っています。
テレビは危険ですよね。そういう幻想をテレビが作り上げやすいから。
諸刃の刃なので、テレビが自由じゃないと集団圧力に汲みしやすい
作ってる人間が「もっと、かき混ぜたい」って気持ちはありますね。
――最近のテレビドラマを見ていると「みんな仲良くないといけない」という作品が多く感じます。価値観の違う人間同士の対立を描くことを避けて、見ている人を気持ちよくして波風を立てないドラマが良いという風潮が強い気がするんですよ。
作り手が以前よりもそれを意識するようになったと思います。口当たりの良さとか嫌だと思われたくないとか。
それも大事なことなんだけど、何かを伝える時にある種の辛さだったり、ドロッとしたものだったり不愉快さは伴うものなので、そこを薄めてしまうことで伝わらなくなってしまう恐さというのはありますね。
――嫌な気持ちになるために忙しい時間を割いて、どうしてテレビドラマを見ないといけないの? と言われたら返す言葉はないんだけど、自分にとってのフィクションはそういうもので、最悪の未来を先回りして体験させてくれるような存在だったんですよね。
僕が山田さんの作品から受け取ったものは、まさにそうです。
「ありきたりってオレのことだよ」って思って悩んだのが、生きるよすがになってたところがあって、罵倒するとまではいかなくても、テレビがちゃんと突きつけるものがあることは大事ですね。
――「傷つけるような表現ってそんなに悪いのか?」って時々、思うんです。
ドロッとした現実があるのに、テレビの表現としては、やらないようにしていると上澄みだけになってしまうので、ドラマを作る時はちゃんと水面下にあるものをくみ取るようにしたいと、井上さんとも話してます。
ご縁ハンター
――後藤法子さんが脚本を書かれた『ご縁ハンター』(NHK、2013年)もすごく覚えています。婚活に翻弄される人々を描いたドラマですが、すごくヤバいものを見たなぁと当時は思ったんですよ。今では当たり前になっていますが、SNSと婚活が結託している空気は恐かったですね。
『ご縁ハンター』は楽しかったですね。
婚活の世界は価値観が倒錯していて、キャリアウーマンになっていくと婚活市場での価値が減っていくという妙な場所になっていて、生々しかったですね。
――『ご縁ハンター』の4年前にNHKで『コンカツ・リカツ』(NHK、2009年)という婚活を題材にしたドラマが放送していたのですが、その時はまだ牧歌的だったんですよね。 『ご縁ハンター』を見て、こんなに変化したのかって驚きました。
ネット婚活で傷ついちゃう人も多いんですよね、ある種の疑似競争社会みたいで。
婚活だからって理由で、価値観が若いとか綺麗とか収入とかで左右されちゃう身も蓋もない社会ってのが、現実の欲望を明確に映してますよね。
――全員がパラメーターで人間を見ている。
そこが今の写し絵になっていて。これは現代的な装置だと思いました。
でも、その中で僕が感動したのは「愛情がすべてをリセットできる」ってことなんです。実はそれが一番僕はやりたくて、最後にキャリアウーマンの利香(観月ありさ)と豆腐屋の青年・シンジ(水橋研二)が結婚するという結末にしたんです。このエピソードにはモデルがあって、ある有名な結婚相談所を取材した時に聞いたのですが、絶対にデータでは結びつかない高学歴の女性に大工の人を紹介したら、その二人がすぐに意気投合して、まったく条件は合ってないのに付き合うことになったんですよ。
愛情って条件を無効にしてしまう力があって、『ご縁ハンター』で一番やりたかったのはそれなんですよね。
確かに条件闘争の殺伐とした感じもあるんだけど「好きになったら全部いいです」っていうあっけらかんとしたさわやかな風が吹くという。
――『かなたの家族』や『お母さん~』とも、どこか繋がってますよね。
現代の写し絵となる装置を使っているのがそうですね。
何かリアルタイムを映している切り口が見えた時にそれがやりたいと思うですよね。
『ご縁ハンター』の時は婚活がそうでした。しかもそこに希望がある。こんなに条件闘争をしているのに、愛というジョーカーですべてはひっくり返るんです。
イモトアヤコさんとMATSU(松本利夫)さんが演じた、いけてない男女が最後に別れるのもよかったです。脚本の後藤法子さんとは、最後まで結論を保留にしていたんですけど「やっぱり二人は別れるべきだ」と意見が一致しました。むしろそれが救いだろうと。
――別れることが救いだというのは、『お母さん~』とも通じてますね。
二人は別れて、もう一度、自分を見つめ直すことが、彼らにとってのゴールなんです。二人が泣きながら別れるのが、これこそハッピーエンドで。婚活の幻想から一度逃れて、自分の答えに行きついているですよね。
取材から生まれるもの。演出の醍醐味。
――最後に演出家の仕事について教えてください。笠浦さんは取材をたくさんされているようですが。
企画型のディレクターなんです。だからやりたい企画を何本も出して、最初から最後まで関わりたい。昔はそういうタイプのディレクターが多かったんですよね。今は共同作業が多いので中々難しいですが。でも、最初から関わることで見えることがたくさんあるので。特に取材って面白くて、自分の想像が裏切られていくんですよ。
世の中は自分が思っているよりもバラエティに富んでるし深いって気付かされます。
恐いのはテレビドラマの価値観の中でモノを考えるようになることですよね。ドラマを繰り返し撮っていると「ドラマってこうだよね」と、タカをくくって現実を見なくなってしまう。
そうならないように取材をしています。
『かなたの家族』の時は飽きるほど取材したのですが、現実の手触りがつかめて、自分の中で腑に落ちるって大事で、役者や脚本家から質問された時も自然に答えが出てくるんですよね。
取材してそれを設定に生かしながら井上さんと脚本を作って、そのプロセスが現場で作品を完成させるまで生きてくる。自分の中に一つ一つ蓄積されているので、それが演出の醍醐味ですね。だからプロデューサーにはならなかったんだと思います。
――ディレクターをやめると撮れなくなってしまう。
うちのシステムだとそうです。自分はそうだと満足できないと思ったので演出家でいようと思いました。
ドラマはディテールにこだわることが面白いんですよ。中々うまく説明できないんですけど、俳優から「ここの芝居をどうしたらいいか」と聞かれた時の答えがドラマを作っていくんです。聞かれた時に答えられるのは物語の世界のディテールが自分の中にあるからこそで、そこが演出のダイナミズムなんですよね。
――『お母さん~』は、それが絶妙だったんですよね。着ている服や部屋の壁紙、顕子の出す食事といったディテールに凄く説得力がありました。
ものすごく些末なところを一つ一つ決めるのが演出の仕事です。
そうじゃないと物事が進まないので。
劇中のチラシの文言だったり色だったりといった一見、どうでもいいかもしれないことを決めていくんですけど。
――そういったディテールは、美月と顕子の趣味が実は違うという結論に辿り着くには絶対に必要ですよね。
服装や壁紙については早くからスタッフと考えて、そこは生きたかなぁと思いますね。ディテールの積み上げがあったからこそ腑に落ちる作品になっていたし、役者も芝居に対してピンとくるようになる。モノを作るってそういう積み重ねですね。
演技も少しずつ積み上げていくもので、「ママね。ほんとはスムージー、そんなに好きじゃないの」と斉藤さんが言う最終回のシーンで、三ヶ月体験してきたからこそ役者が答えを見つけた瞬間に立ち会えたと思いました。この表情が見れたから、このドラマをやってよかったなと思いました。
その時々の正解でしかないんですけど、ディテールを積み上げて長い時間、一つの物語に向き合っていく中で辿り着く場所があるんですよね。
テーマは母娘密着なんだけど、僕らは美月と顕子の話をやっているわけで。建前じゃない答えを探しているんですよ。だから顕子はああいう答えを出すわけです。
「僕たちは母娘問題の正解を出しているわけではありません」と、ホームページにも出したんですけど、僕たちなりに美月と顕子の物語に対する答えを出したつもりです。
後は見てくれた人が自分のことのように受け止めてくれたら嬉しいですね。とてもパーソナルな話なんだけど、そこに普遍があると思うんです。
ドラマってそういうディテールが普遍的な面白さにつながるのが好きなんですよね。
(NHKにて収録)