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【深掘り「どうする家康」】松平広忠の無残な死と徳川家康(竹千代)の家督継承の真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまった。今回は松平広忠の無残な死と徳川家康(竹千代)の家督継承について、詳しく解説することにしたい。

 天文17年(1548)に勃発したのが、二度目の小豆坂の戦いである。当時、西三河の政治情勢は不安定であり、松平氏は非常に不安定だったので、今川方が動揺を鎮めるため出陣したと考えられる。

 同年3月13日、義元は太原雪斎を総大将に命じると、数千の軍勢を与えて、松平氏の救援に向かわせた。副将は、朝比奈泰能である。今川方は3月18日に藤川(愛知県岡崎市)に到着し、岡崎城の広忠と合流した。

 今川方の出陣を知った信秀は、清須城(愛知県清須市)を出発し、3月17日に安祥城(同安城市)に入った。翌18日に矢作川を渡ると、上和田城(同岡崎市)に着陣したのである。

 翌19日、小豆坂の戦いがはじまった(岡崎市)。両軍は互いの軍事行動を十分に把握しておらず、鉢合わせによる接近戦という状況になったという。それゆえ、両軍ともに気が動転しており、極めて大混戦になったと伝わる。

 開戦当初は、坂の上に陣を敷いた今川方が戦いを優勢に進めた。対する織田信広の軍勢は、冷静な判断で本隊のある盗木の付近まで退き、劣勢を挽回しようと考えた。

 やがて、織田方は本体と合流して勢いを盛り返し、松平方を劣勢に追い込んだ。いよいよ今川方が敗北かと思いきや、今川方の伏兵が織田方に突撃し、形勢の挽回に成功したのである。

 結果、織田方は総崩れとなり、安祥城に逃げ帰った。信秀は信広に安祥城の守備を任せ、自身は清須城に帰還した。優勢のままに戦いを終えた今川方も、それ以上の深追いをせず、兵を引いたのである。

 戦いの直後、松平方は敵対する松平信孝を討ち取った(耳取縄手の戦い)。こうして西三河の政治情勢は、落ち着きを取り戻したのである。ところが、その翌年、松平家に突如として不幸が襲った。

 天文18年(1549)3月6日、広忠が岡崎城内で家臣の岩松八弥に斬り殺されたのである。広忠が家臣の手によって惨殺されたということについても、異説がある。

 『松平記』などには「病死」とあり、同書は清康・広忠と二代にわたって不慮の死を遂げたことを憚ったと考えられている。

 いずれにしても、竹千代と松平家は窮地に陥ったのである。その結果、竹千代が松平家の家督を継ぐことになったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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