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【戦国こぼれ話】武田信玄の父・信虎は、なぜ甲斐から追放されたのか。その驚愕すべき真相とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄が父の信虎を追放した真の理由とは。(提供:アフロ)

 最近、公開された映画「信虎」が好評のようである。ところで、武田信虎は子の信玄に追放されたが、そこには驚くべき真相があった。その背景を探ることにしよう。

■武田信虎の悪評

 武田信虎は、悪評で知られている。信虎はかわいがっていた猿を家臣に殺され、家臣を手討ちにしたという(『甲陽軍鑑』)。同史料では、信虎の人間性を「ひとかたならぬ狂気の人」と低く評価している。

 それだけではない。信虎追放事件を記す後世の史料には、「余りに悪行を成らせ候間」(『勝山記』)、「信虎平生悪逆無道なり。国中の人民、牛馬、畜類とも愁い悩む」(『塩山向嶽禅菴小年代記』)と口を揃えて評価は手厳しい。

 ただ、こうした史料は後世に、都合よく書き換えられた可能性を否定できない。信玄が信虎を追放し、自らが武田家の家督を継いだことを正当化しようとした可能性もある(「信虎追放事件」)。

■信虎は悪人だったのか

 天文10年(1541)6月14日、信濃国から帰国した信虎は、娘婿である今川義元と面会するため駿河国に赴いた。ところが、信玄は甲斐と駿河の国境を封鎖し、信虎が帰国できないようにした。行き場を失った信虎は、義元のもとでの生活を余儀なくされる。

 こうして信玄は譜代の家臣の支持を受け、父の代わりに武田家の当主の座に着いた。これが、信虎追放事件の概略である。

 信虎が追放された理由は、①信虎が悪逆無道であったため領国支配に失敗した、②今川義元と信玄による共謀、③信虎と信玄の合意に基づき義元を謀ろうとした、④信虎のワンマン体制に反対し、信玄と家臣が結託して謀反を起こした、⑤対外政策をめぐって、信虎と家臣団が対立した、という5つの理由に集約される。

 まず、①説から検討することにしよう。『勝山記』には、「この年(天文十年)六月十四日に武田大夫様(信玄)、親の信虎を駿河国へ押し越し御申し候、(中略)信虎出家めされ候て駿河に御座候」とある。

 この記事によると、追放された信虎は駿河で出家したと記すが、実際に信虎が出家したのは、復権を断念した天文12年(1543)頃といわれている。信虎が出家をしたというのは、甲斐での復権を断念したということになろう。

■信虎悪行説はわかりやすいが・・・

 同じく『塩山向嶽禅菴小年代記』には、「辛丑(天文十年)六月中旬(信虎が)駿府に行く。晴信、万民の愁いを済まさんと欲し、足軽を河内境(甲斐と駿河を結ぶ街道)に出し、その帰り道を断ち、(信玄が)即位して国を保つ」とある。道が封鎖されたので、信虎は甲斐に帰れなくなったのだ。

 信虎が悪逆無道の人物であったため、信玄が民衆らの期待に応えて、信虎を放逐したということになろう。このあとに続けて、甲斐の民衆は大いに喜んだと記されている。この記事は、信玄自らが後継となることを正当化するための記述ではないだろうか。

 信虎悪行説は非常にわかりやすいが、その反面あまりに理由が単純すぎて、かえって真実味に欠ける側面がある。それは、信玄の正当性を担保するための後世の配慮のように思える。

 ②説は『甲陽軍鑑』に記載されているが、いささか現実味に欠ける。そもそも信虎は嫡男の信玄を嫌悪しており、次男の信繁に家督を継がせようとしていたので、信玄は廃嫡の危機にあったというのである。②説には、親子不和の逸話が影響しているのか。

 ③説は『甲斐国志』に載せる説であるが、その後の情勢を勘案すると、決して首肯できるものではない。義元を陥れようとするならば、すぐに駿河に攻め込むなり、あるいはのちに信虎の帰還を認めるなり、何らかの措置をするはずである。②③のような陰謀説は、創作性が高いように感じられてならない。

■④⑤説の検証

 その点で、④⑤の説は、現実性の高い見解であると考えられる。そもそも信虎配下の国人たちは、それぞれが自立性が高く、決して完全な配下にあったわけではない。いうなれば緩やかな同盟関係といえよう。つまり、信虎の態度如何によっては、離反する可能性が高かったのである。

 戦国時代において、家臣が当主とは別人(兄弟や子息)を擁立し、当主を追放する例は少なからずあった。家中における家臣団の意向なりは、かなり尊重されたのだ。一般的に、新しい当主を定めるときは、家臣の合意が必要で、家臣の意見に反して、違う当主が擁立されると、家中が二分し対立することも珍しくなかった。

 当時、信虎は拡大策を採用しており、国人たちは従軍を余儀なくされた。その軍事的な負担は、当然国人の肩に重くのしかかってくる。同時に、信虎による棟別銭(家屋にかかる税金)の賦課なども、国人にとって不満の種だった。

 そう考えると、信玄が単に「父憎し」という思いから単独で行動を起こすことは考えにくい。いかに義元と姻戚関係にあるとはいえ、結託するのも現実的ではないであろう。信虎追放は、信玄の一存では決めかねる重大な問題だった。

■まとめ

 やはり、信虎に不満を持つ国人・家臣らの突き上げにより、信玄が父を追放せざるを得なかったというのが実情ではなかったか。実際には、信玄が国人・家臣に推戴され、父を今川家に追いやったといえよう。信虎を追放することによって、武田家中はいっそう連帯感を強め、さらに発展を遂げたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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