明智光秀は織田信長から酷い目に遭わされたという、3つの逸話を検証する
明智光秀の居城だった坂本城の発掘が進み、大きな話題となっている。こちら。光秀が織田信長を討った理由は、長らく怨恨説が主流だった。光秀は信長から酷い目に遭わされたというが、それを史実として認めてよいのか、考えることにしよう。
◎甲斐武田氏の征伐後に折檻される
天正10年(1582)3月、信長は甲斐武田氏を滅亡に追い込んだ。その後、信長が信濃諏訪(長野県諏訪市)に滞在していると、光秀は「(武田氏を滅ぼすのに)苦労した甲斐があった」と述べた。
しかし、光秀は甲州征伐に出陣していなのに、別に苦労をしたわけではない。光秀の言葉を聞いた信長は激昂し、光秀の頭を掴んで欄干に打ち付けた。それをほかの武将が見ていたので、光秀は多くの人の面前で大恥をかき、信長を恨んだという。
この話は後世に成った『祖父物語』に書かれたものであり、同時代史料の一次史料には記録されていない。『祖父物語』は武将のエピソードを集めたもので、史料的な価値は劣る。したがって、この話はよく知られたものではあるが、現在では信憑性が低く、疑わしいとされている。
◎家臣の引き抜きをめぐって折檻される
光秀の家臣の斎藤利三は、もともと稲葉一鉄(良通)に仕えていたが、引き抜かれたという事情があった。本来、元の主の許可を得て、新しい主に仕えるのが武家社会における慣習だった。
ところが、利三は手続きを踏まなかったこともあり、一鉄は引き抜かれたことを信長に訴えた。つまり、ルール違反だったのだ。信長は光秀に利三を稲葉家に返還するよう求めたが、拒否された。
光秀は「利三を召し抱えたのは私利私欲のためではなく、信長様のため」と言い訳したが、怒りの収まらない信長は信長の髻を掴んで引きずり回し、ついには脇差を引き抜こうとした。
光秀は涙を流して侮辱に耐えたが、信長を深く恨んだという。この話も『常山紀談』などの質の悪い二次史料に書かれたもので、今となっては疑わしいとされている。
◎酒が飲めないのにむりやり飲まされる
庚申待の際、光秀が小用に立つと、信長が光秀の首に槍を突き付け、席を外したことに怒り狂ったという(『義残後覚』)。似たような話は、ほかにもある。
信長が酒宴の際、光秀に飲酒を強要した。光秀が断わると、信長は「白刃を飲むか、酒を飲むか」と強く迫られ、泣く泣く酒を飲んだという(『常山紀談』)。今でいうハラスメントであるが、やはり光秀は信長を恨んだという。
『義残後覚』も『常山紀談』と同じく、武将のエピソード集であり、史料的な価値は著しく劣る。したがって、こちらの話も史実として認めがたく、疑わしいと指摘されている。
◎まとめ
光秀が信長を恨んだという出来事は、かなり荒唐無稽なものが多く、いずれも質の悪い史料に書かれたものばかりである。史実としては認めがたい。
したがって、現時点では単純な怨恨により、光秀が信長に叛旗を翻したとは考えにくいとされる。今後、良質な史料に基づき、解決されるべき課題であろう。