Yahoo!ニュース

なぜラグビーW杯はサッカーから半世紀以上遅れての開催となったのか。【ラグビーW杯の歴史】

永田洋光スポーツライター
第1回W杯優勝のニュージーランド代表デイビッド・カーク主将 AFP/アフロ

 あの感動からもう1年――。

 ラグビー日本代表は今、コロナ禍の影響でテストマッチを行なえない状況に追い込まれている。そんな“ラグビーロス”の日々に、この大会の歴史と、日本代表の軌跡をお送りしよう。今回は、そもそもなぜラグビーW杯が20世紀後半まで行なわれなかったのか、だ。

サッカーとの確執がラグビーW杯の開催を半世紀以上遅らせた!

 ラグビー・ワールドカップ(W杯)が最初に開催されたのは、“兄弟フットボール”のサッカーから遅れること57年、1987年のことだった。

 遅れの背景にあるのは、競技成立時の因縁だ。

 19世紀後半、さまざまなルールのフットボールが混在するイングランドで、1863年に史上初めて統一ルールを成文化したのが、フットボール・アソシエーション(FA=イングランド・サッカー協会)だった。彼らのアソシエーション・ルールは手を使わないことが特徴的で、これには当時のフットボールに見られた粗暴な行為を抑止する狙いがあった。

 それから8年後の1871年、今度は手を使うラグビー校式のフットボールを、ラグビー・フットボール・ユニオン(RFU=イングランド・ラグビー協会)が統一ルールにまとめて、スコットランドとの間で史上初のテストマッチを行なった。

 これがそれぞれの競技の起源とされているが、その1871年にFAは、それまで存在しなかった画期的な大会フォーマットを打ち出して一躍脚光を浴びた。現存する世界最古のカップ戦、FAカップの開催である。

 それまでのフットボールは、統一ルールがなかったために、相互に相手を訪問してホーム側のルールに則って試合を行なうホーム&アウェー方式以外に、試合形式を持たなかった。ところがFAは、アソシエーション・ルールのもとに3チーム以上を集め、どのチームが一番強いかを決めるチャンピオンシップ方式を生み出して、それに「カップ」という名称をつけたのである。

 FAカップは、最初の決勝戦が1872年に行なわれたので「1872年から始まった」とされているが、1回戦が始まったのはその前年。つまり、RFUがようやく統一ルールを完成させた年だ。

 これから普及に乗り出そうとした矢先にFAカップをぶつけられたラグビー(RFU)は、この仕打ちに腹を立てて、以後カップ戦という形式そのものを否定する。

 以降、ラグビーでは、テストマッチは原則としてホーム&アウェーでの開催以外は認められず、中立地に多くのチームが集まってどのチームが一番強いかを決めるチャンピオンシップ制はW杯が始まるまで存在しなかった(7人制やアジア選手権のようなマイナーな大会を除く)。

 20世紀後半になって、1984年、ロサンゼルス五輪の商業的な成功を契機にスポーツがグローバルなビジネスの対象となると、ラグビーを統括していた最高の意志決定機関インターナショナル・ラグビー・フットボール・ボード(IRFB=現ワールドラグビー)内部でも、W杯開催の是非を議論せざるを得なくなった。そしてその場で、かねてから開催に積極的だったニュージーランド、オーストラリア、フランスが議論を主導する形で、アイルランドやスコットランドなどの保守派を説得。ようやく重い腰を上げてW杯に踏み切った。

 だから、サッカーから57年も遅れたのである。

第1回大会は参加16チームすべてが予選なしで招待された!

 IRFBは、1987年の大会からW杯で行なわれる試合をすべて公式なテストマッチと認定することを発表する。これも非常にわかりづらい話だが、それ以前は、各国協会の代表チーム同士の試合をテストマッチと認定するかどうかは、それぞれの協会の判断に委ねられていた。

 たとえば、日本は1971年に秩父宮ラグビー場で、来日したイングランドと双方ノートライの3―6と死闘を演じたにもかかわらず、イングランド協会はこの試合を公式なテストマッチとは認めていない。1983年にカーディフで日本がウェールズに24―29と食い下がり、ラグビーファンを興奮させた試合も、ウェールズ協会はテストマッチと認めていない。一方、日本側は、どちらの試合もテストマッチと認定している。そうした、良く言えば「伝統」にとらわれたラグビー界がこだわりを捨て、各国の伝統の有無にかかわらず、すべての試合に最高の価値を認めたのがW杯という大会だった。

 この第1回大会は、ニュージーランドとオーストラリアの共同開催で行なわれた。

 IRFBは、当時バブル経済の真っ只中にあった日本のKDD(現KDDI)を冠スポンサーにして、財政的なリスクを回避する。この事実自体が、大会が成功するのかどうかに確信が持てずにいたIRFBのスタンスをよく現わしている。

 大会は、全16チームを招待して4チームずつ4つのプールに分け、各プール上位2チームが準々決勝に進むというフォーマットで行なわれた。

 招待されたチームとプール分けは以下の通りだ。

 プール1 オーストラリア、イングランド、アメリカ、日本

 プール2 ウェールズ、アイルランド、カナダ、トンガ

 プール3 ニュージーランド、フィジー、イタリア、アルゼンチン

 プール4 フランス、スコットランド、ルーマニア、ジンバブエ

楽観的な目論みを打ち砕かれた日本代表

 日本は宮地克実監督・林敏之主将の体制で大会に臨んだ。

 同じプールに入った3チームとはいずれも対戦経験があり、イングランドとは前述の3―6など過去に大接戦を演じたことがあった。アメリカも、ラグビーの後発国だと思われていたが、重要なことは、この3チームを相手に日本は一度も勝ったことがない、という事実だった。

 けれども日本はあくまでも“ポジティブ”で、大会前には「アメリカには勝てるだろう」とか、「イングランドとは相性が良い」といった楽観論が、当時の専門誌に載っていた。しかし、過去に一度も勝ったことのない相手にW杯の場で勝つことが、どれほどの難事業であるかを日本は思い知らされることになる。

 初戦のアメリカ戦では、トライ数はともに3本ずつと勝負は拮抗したが、日本はトライ後のコンバージョンを一本も決められず、結局キックの差で18―21と敗れた。日本のトライは、確かにアメリカのトライよりも質が高く見えたが、インゴールに蹴り込まれたボールの処理ミスを、懸命に追走したアメリカの選手に押さえられてトライを奪われるなど、勝負所の集中力では劣っていた。

 続くイングランド戦も、前半終了間際にノフォムリ・タウモエフォラウのインターセプトから宮本勝文がトライを挙げて期待を持たせたが、後半に入るとFWを粉砕されて7―60と大敗した。

 日本は、当時としては“大型”のFWを編成したが、それはあくまでも国内の基準から見た場合の“大型”に過ぎず、イングランドにはまったく通じなかった。

 最終戦こそ、沖土居稔のロングDGが飛び出し、朽木英次が2トライを挙げるなど、日本の“健闘”と言われたが(23―42)、トライ数はオーストラリアが8で日本が3。内容的には完敗だった。

 大会終了後も、日本代表は第1回大会を制して来日したニュージーランド代表に大差で連敗しただけではなく、その前哨戦ではアイルランド学生代表にも敗れ、翌1988年11月には香港で行なわれたアジア選手権でも決勝戦で韓国に13―17と敗れて、「アジアの盟主」の座から滑り落ちた。

 W杯のショックをひきずったわけでもなかろうが、成績はどん底だったのである。

 しかも、アジア選手権で韓国に敗れた直後の1988年秋には、第2回大会に至る予選のフォーマットが発表され、それによれば、日本は1990年春に宿敵の韓国、これまで留学生以外にラグビーでの交流がなかったトンガ、そして7人制以外での対戦がない西サモア(当時=1996年からサモアに)と総当たり戦のアジア太平洋地区予選を戦うこととなった。ここで2位以上の成績を残さなければ、1991年の本大会に出場できなくなる。1987年からの連戦連敗の成績を振り返るまでもなく、このハードルは、日本の実力よりもかなり高く見えた。

 そんな日本が再建へと踏み出したのは、1989年1月の昭和天皇崩御によって「平成」と元号が変わってからだった。

 とはいえ最初から再建が順調に進んだわけではなかった。

 この年の5月には、スコットランドが来日することが決まっていた。そのため、スコットランド来日からW杯予選へと厳しい試合が続くことを考えて、代表監督就任を断るOBが相次ぎ、監督選びが難航したのである。

 そのなかで火中の栗を拾ったのが、当時37歳で住友銀行に勤めていた宿澤広朗だった。そして――元号が変わったことと呼応するように、日本ラグビーもまた変わっていったのである。

第1回W杯が世界のラグビー地図に地殻変動をもたらした!

 世界に目を向ければ、ラグビー界が手探りで開催したW杯は、商業的にも大成功を収めた。

 系統的なフィットネス・トレーニングで圧倒的な強さを誇り、危なげなく優勝を遂げたニュージーランドや、独特のラグビースタイルでベスト8に勝ち残ったフィジー、準決勝でオーストラリアとの歴史に残る死闘を制したフランスなどのチームが、世界中にこの競技の魅力を強く発信して、ラグビーが来たるべき衛星放送時代に向けた有力なコンテンツであることを証明した。

 その一方で、日本のように手探りのなかで大会の重みを読み違えたチームがいくつもあった、

 たとえば、北半球の盟主と目されていたイングランドもその一つだ。

 彼らは、準々決勝でウェールズに敗れてベスト8で終わった結果を重く受け止め、後に第2回W杯でヘッドコーチとなるロジャー・アトリーら当時の若手コーチたちが帰国後に話し合いを持った。そして、選手を長い時間拘束して系統的なトレーニングを積む以外に大会を勝ち抜く術はないとの結論に達する。

 苦い教訓を学んだイングランドのナショナルチームは、さまざまな軋轢も経験しながら強力なチームを作り上げ、1991年のファイブネーションズ(当時)でグランドスラムを達成。自らがホスト協会となった第2回大会でも、見事にファイナリストへと上り詰めた。

 このように、W杯の開催は、世界のラグビー勢力図に地殻変動を起こすような、強力なトリガー(引き金)となったのである。

スポーツライター

1957年生まれ。出版社勤務を経てフリーランスとなった88年度に神戸製鋼が初優勝し、そのまま現在までラグビーについて書き続けている。93年から恩師に頼まれて江戸川大学ラグビー部コーチを引き受け、廃部となるまで指導した。最新刊は『明治大学ラグビー部 勇者の百年 紫紺の誇りを胸に再び「前へ」』(二見書房)。他に『宿澤広朗 勝つことのみが善である』(文春文庫)、『スタンドオフ黄金伝説』(双葉社)、『新・ラグビーの逆襲 日本ラグビーが「世界」をとる日』(言視舎)などがある。

永田洋光の最近の記事