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女子バレーPFU三橋が引退表明。「Vリーグは憧れの場所であってほしい」

田中夕子スポーツライター、フリーライター
廃部、ケガ、試練も笑顔でこえた三橋が引退表明(写真提供/PFUブルーキャッツ)

全力でできない現実に引退を決意

 負ければV2降格が決まるJAぎふとのチャレンジマッチ。

 三橋聡恵はジャージ姿でコートの外にいた。1点入れば立ち上がって喜ぶ後輩たちの横で、祈り、時に叫びながらも、立ち上がって一緒に踊るわけではなく、それでもサーブで下がる選手には声をかけ、勝利した瞬間は一緒になって泣く。

 残留を決めた翌日の4月1日。新元号の発表に盛り上がったその日、PFUのホームページで三橋の引退が発表された。

「1年1年、ずっと辞めようか、続けようかと迷っていたんです。でも迷っても結局、もう少しやりたい、と思ってここまで来た。だけどさすがに。いつもすべてを全力でやるのが私なのに、もうすべてを全力でやることはできない。大事なチャレンジマッチなのに、立ち上がって喜ぶこともできないぐらい脚が痛くて、これ以上はもう無理だな、と引退を決めました」

 自ら選び、進んだチームが廃部になり、プレーする場所がなくなったこともある。

 原因不明で、アスリートには症例がないと言われたケガで、途方に暮れたこともある。

 それでも彼女はいつだって、そんなつらさなど微塵も感じさせないぐらい、笑顔がトレードマークの選手だった。

廃部、ケガ。苦しい経験が気づかせてくれたこと

 エリートとは程遠い選手生活。

 小学生からバレーボールを始めるも、中学、高校は小野学園に進み、バレーボール部に属するものの、部活よりも勉学第一の環境で、テストの設定得点がクリアできなければ部活の練習に参加することもできない。

 体育館に机を持ち込んで、練習に励む仲間のかたわら、課題のクリアに必死になったことも一度や二度ではなかった。

 強豪揃いの東京都を勝ち抜くどころか、目標は地区大会突破。三橋曰く「本格的にバレーを始めたのは大学からかもしれない」と言うのも決して大げさな冗談ではないぐらい、バレーボール選手としての道が拓けたのは東京女子体育大学へ入学してから。

 エースとしての活躍を評価され、卒業後は山形県天童市を拠点としたパイオニアに入部。直後から試合出場の機会を得るも、14年に廃部。同じプレミアリーグ(現V1リーグ)のチームからも声をかけられたが、「もう一度自分の力で這い上がりたい」と当時チャレンジリーグ(現V2リーグ)に属したPFUへ。主将も務め、16年にはプレミアリーグ昇格を果たすも、三橋自身はケガとの戦いを余儀なくされた。

 股関節FAI。

 股関節の受け皿となる骨の形態異常により、股関節を大きく動かす際に衝突し、挟まれる股関節唇が損傷する。三橋が苦しんだのはまさにその症状だった。

 最初は筋肉の異常かと思っていたが痛みは治まらず、痛みの度合いが増すと跳ぶどころか歩くことも、立つこともできず、さすがに周囲をごまかすことはできない。チームは昇格を果たしても、自身はプレーの向上よりもまずリハビリに取り組まなければならず、しかもそのメニューも制限しなければならない。

 バレーボールの動きでも制限が生じ、鍛えたい部位も満足なトレーニングすらできない。それでも「今まで誰も経験したことがないなら、ここで復帰すれば自分が第一人者になれる」とモチベーションを維持し続けて来たが、さすがにそれも限界を迎えた。

 まだまだやりたかったことも、やりたいこともある。ケガがもっと別の場所ならば。そう思ったこともある。

 だが、この経験をしたからこそ気づけたこと。それは、これまでの選手生活の中でも最も大きなこと、と胸を張れるもの、と三橋は言う。

「廃部になった時やケガをした時、それこそ1日中、寝ていなければならなかったこともあるんです。そんな状況になる前までは、毎日朝起きるたびに『あぁ今日も練習か』と思っていたけれど、それがどれだけ幸せなことだったか、当たり前にできなくなってみて初めて気がついた。練習して、家に帰ったらソファで寝てしまうぐらい体がくたくたになって、朝起きたらまた『今日も練習ができる』と思える。バレーボールが当たり前にできるってこんなに幸せなことだったんだ、とよくわかったから、私は幸せな選手生活でした」

「私、Vリーグが大好きなんです」

 無名の学生時代。Vリーグは「自分には絶対届かない場所」だと思っていた。そんな憧れの場所に身を置き、選手として在籍し続けられたのは幸せなことだったが、もっと知ってもらうためにどうしたらいいのか。もっとたくさんの人に足を運んでもらうための方法があるのではないか。新リーグと銘打たれた今季は、特にこれからのバレーボール、Vリーグのあり方について多くのことを考えたシーズンでもあったと振り返る。

「私はプレーで魅せて人を呼べるような選手ではありません。だからちょっとした機会でもいいから、『この人面白いな、PFUを見に行こうかな』と思ってもらえばいいな、とイベントも一生懸命、時には恥ずかしいこともありましたけど(笑)、それが盛り上げにつながるなら、と思ってやってきました。きっかけは何でもいいと思うんです。男子のファンで会場に来た人がたまたま見た女子を見て『面白いな』と感じてくれるだけでもいい。立派な体育館で試合をしてもお客さんが入らないからチケット代を上げる、という発想ではなくて、もっと小さな、それこそこじんまりした体育館でもいいからもっと値段を下げて、気軽に人が来てくれるような場があればいいと思うし、それこそV1、V2、V3が同じ会場の一面コートで試合をして、どのカテゴリーが好きな人も、そこに来ればいろんな試合をじっくり見られる。そんな場所や環境づくりのほうが大事じゃないかとか。だからこれからは、自分でチケットを買って、いろいろなチームの試合やホームゲームを見たいし、選手じゃなくなっても、少しでもいろいろな人に、バレーボールを知ってもらえるきっかけづくりがしたいんです」

 5月の黒鷲旗まで、通常であれば引退や退団の告知は1週間ほど前に行うのが常だったが、多くの人に感謝を伝えたい。そう思ってひと月早く、ホームページで引退を発表した。

 決して華やかでも、派手でもない選手生活で、「スターとは真逆の選手」と笑うが、それでも胸を張って言えることがある。

「私、バレーボールが好きだし、Vリーグが大好きなんです。だから、これからもずっとVリーグは子供たち、いろんな人たちにとって憧れの場所であってほしいんです」

 いつも笑顔で、恥ずかしさをごまかしながら積極的にふざけて、盛り上げ役を全うしてきた。

 自分にしかできないことが、それぞれにきっとある。ずっと、そう思ってきた。

 ケガの状態はあまり芳しくない。でもまだひと月ある。だから最後はユニフォーム姿でコートを走り回りたい。そんな姿を見せられたら、会場の四方八方に向けて、みっともないぐらい泣きながらでもいい。大声で言おう。

 今まで、ありがとうございました。私はバレーボールが大好きです、と。

スポーツライター、フリーライター

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、月刊トレーニングジャーナル編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に「高校バレーは頭脳が9割」(日本文化出版)。共著に「海と、がれきと、ボールと、絆」(講談社)、「青春サプリ」(ポプラ社)。「SAORI」(日本文化出版)、「夢を泳ぐ」(徳間書店)、「絆があれば何度でもやり直せる」(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した「当たり前の積み重ねが本物になる」(カンゼン)などで構成を担当。

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