日本のマスコミ報道について -大震災・原発事故以降、受け手の見方は変わったか?(コメント その3)
新サイト「byus」(バイアス)のco-founder、デザイナー
山田寛仁さん
ーマスコミ不信はいつごろ生まれたと感じていらっしゃいますか?
私は震災以前、“ニュース”に対して強い疑問を抱く事はありませんでしたが、「スキャンダルや不祥事といった内容が過度に扱われ、世論が変に傾いたまま“事件が起こっては過ぎ去る”という事が淡々と繰り返している。」といった認識はありました。ただ、多くの人がマスゴミと揶揄しながらも、報道内容を信用しないというまでにはな っていなかったと思います。
どちらかというと、そのマスコミに振り回されないようにするために“ニュース と一定の距離を置く”という事をしていたかもしれません。
私は以前、広告制作会社に勤めており、マスと受け手側の不都合な関係を作る側にいたので“マスコミュニケーション”自体に関しては以前から不信感を感じていました。
本当に必要なことよりも、利益をより多く求める為に盛られていく情報、飾られるコンテンツ。そしてそれによって踊らされる消費者。このマスコミュニケーションの構図への疑問、不信感は震災前にも自分の中に強く持っていました。
ー大震災の前後で、大きく変わったという実感はありますか?
震災後でマスコミ/マスメディアが大きく変わったという印象はありません。ただ、多くの“受け手側”に立つ人達の意識が変わり始めるきっかけにはなったと実感しています。
様々な職業、立場によって伝えるべき/伝えられるべき情報は変わり、現状のような誰かが特定の一つの立場からマスコミを通して情報を発信する以上、その情報には偏りが生じており、私が感じたマスコミへの疑問感は抜けないと思います。
むしろ、その発信された情報をもって私たち一人一人が考えなければいけません。情報が足りなければそれを得るためにマスメディア以外の情報を得るなど、行動しなければいけない状況になったのだなと多くの人が気づいたと思います。
ーもしそうである場合、なぜだと思いますか?
震災当時は多くの人がTwitter,Youtubeやfacebookなどのインターネットを用いたメデ ィアを使って必要な情報を得る為に模索しました。インターネットにも未だ多くの問題はありますが、マスメディアでは流れてこない、マスメディアを待っていては遅い情報が、これらのメディアを通して手に入れる事ができました。
これによってマスコミの構造の不完全さを体験しました。
メディアが間違った情報を提供してしまう事もありました。CNN は福島原発が水蒸気爆発を起こした際、宮城で行っていた生中継内でアナウンサーが一目散に逃げる場面を報道したり、放射能の影響で一部の地域での水が「contaminated = 汚染されている」という言葉をつかって報道してしまい、国外からの評価を大きくマイナスの方向に傾かせたと思います。
これによってマスコミが伝える情報の不明確さを体験しました。
そして、原発が爆発し、多くの人が今の場所を離れなければ「命」に関わるかもしれない状況なのにも関わらずマスメディアを通して政府が発表した内容はあまりにも不明確でした。
また、会見の際にも、記者クラブという特定のジャーナリストしか入れないなどという権力構造が見えたり、ジャーナリストと政治家、政治家とジャーナリストとの癒着が幾度となく浮かび上がり、どこを信用したら良いのかわからない状態になりました。その疑いは今でも多くの人が持ったままだと感じます。
これによってマスコミと政府、企業の関係が織りなすプロパガンダを体験しました。
これらの事のどれか1つだけでも感じると、一気に信用していた情報のインフラが崩壊します。
しかし、今回のような当事者性の高い出来事では、判断の責任は自分にまわってくることになるので、多くの“受け手”側だった人の意識が変わったのだと思います。
ーbyus さんの立ち上げには震災報道が関連していますか?
弊社は震災前、小さなサイドプロジェクトとして考えていました。ですが、震災での経験から byus の意義と必要性を強く感じ、共同創業者に声を掛け、多くの人へ価値を提供するべく、他メディアと同じ土俵に立ち、会社として立ち上げることを決心しました。
一つ、byus の立ち上げの想いを決心に変えた体験があります。
私は震災翌日から CNN と行動を共にし、被災地に入り通訳としてスタッフと共に行動していました。私や関わっている現地のドライバー含め、報道の現場に一度も関わった事のない人達が初めて体験した被災地の現場はあまりにも強烈で、余震が続く中、食べるものも無く、シャワーも使えない状況での緊迫した空気を今でも強く覚えています。
毎日一日中、被災地を様々な場所へ向かい取材をしていました。
そんな中、報道していてある事に気づきました。「救援が足りなさ過ぎる。」
私が被災地に入る前にマスコミやネット上で言われていた情報は、「阪神・淡路大震災の時はボランティアが来すぎて渋滞を起こし、自衛隊や救急隊が現地に入れず助からなかったケースが多かった。だから被災地にいくな、彼らに任せろ。」というものが多かったのですが、どう見てもおかしい。
東北 3 県をまたぐ程の規模の津波での被害、それを自衛隊や救急隊だけに任せても絶対に足りない。
今誰も居ないこの状況で一刻も早く物資を届けなければ助かる命も助からなくなってしまうと感じました。
ちょうどその時現地での食料を確保する為に東北のドライバーさんに 2t トラック分の食料を積んで仙台に向かってもらう手配をしていました。
僕でも連絡次第でこういった手配ができるのに、他のNPO などの団体は動いていないのかあまり見当たらず、不思議でした。
その中で、堀江貴文さんが他の twitter ユーザーの「都内で買い占めて被災地に送る人…なんてほぼいないよなぁ…。」というつぶやきに「届ける手段無し」という引用ツイートをしていたので、「秋田から 2t トラックでスーパーの中の物買い占めて仙台向かってますが、遠過ぎると不可能でしょうか?」と引用ツイートすると、「正直言って悪いが、意味ないよ」とツイートされました。
そのツイートを見た多くの方々から、いろんな批判や罵倒を頂きました。
阪神・淡路大震災を経験した議員さんのブログや、震災経験者の方々からのつぶやきで、「その善意は無駄になり、逆に被災した人の迷惑になる。」というものでした。
自分の見ているものと、冷静に外から考えた場合にこれほどのギャップがあるのかと驚いたのと、自分の判断が間違っているのかと悩みましたが、答えは時が過ぎるごとに明確になっていきました。現地の、当事者である人達の声が届いていなかったのです。
少しインフラが回復し、インターネットや電話回線もつながるようになると南相馬市のYoutube動画が最たる例ですが、被災地の困窮した状況は明確になっていきました。
そのすぐ後から、多くのNPOが立ち上がり、多くの人が東北に実際に足を運び、活動し始めたのはみなさんがご存知の通りです。
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉がありますが、「今」や「本人」をしっかり見ずに「歴史/過去」のみで判断することは、同じくらい愚かで、盲目だと私は確信しました。
この体験がきっかけとなり、マスと消費者、政府と国民、人と人のコミュニケーションの穴に潜む問題を解決できるメディアを立ち上げたいという想いが決心にかわりました。
いろんな立場、当事者の人達の意見をもちより、それを自分で考えるきっかけを作る事。
それを通して双方への偏見を無くす事が、これから起こる出来事に対するよりよい判断への鍵だと震災での体験を通して学ばされました。震災で亡くなられたの多くの方々の犠牲の上で、私は大切な事に気づかされました。
東日本大震災で亡くなられた方のご冥福と、未だ行方不明の方々の全員発見と、今も避難を続けている被災者の方々の一日も早い安定した生活を、深くお祈り申し上げます。
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早稲田大学
森治郎教授
一言でいうと「不信が増幅された」ということですが、それには正当なものと「厳しすぎる」ものとがあるように思います。
ご承知の通り、原発事故についてはメルトダウンの事実、それがちゃんと機能していれば早期に住民を避難させることができるかもしれなかったのに機能しなかったSPEEDI事故の隠蔽など、さまざまな事実が発表されませんでした。したがって報道されませんでした。メディアの追及が甘かった、 あるいは非力であったと思います。そのことが多くの人たちから「メディアも政府と結託していた」と批判・非難されました。しかしその原因のかなり は「追及の甘さ、取材力のなさ」にあったように思います。その意味では批判の多くは「買いかぶり」に根ざしたものであるといえるように思いま す。
もう1つはSNSに比べての情報量の少なさでしょうね。それもある側面では既存のメディアにはない機能をSNSが持ったからこそでしょう。なお、 ある側面とは、目下のところSNSは「たまたま目撃したり知っていた」ことの交換による情報の伝播であり、目撃のないところでの情報発掘において 既存メディアを超えることができるかどうかについては今後を待たなければならない、ということです。
震災とその後の展開によってメディアは自らの至らなさ(政府情報のうのみ、政府や企業との癒着あるいは癒着寸前の友好関係、取材力の弱さなど)を 痛感したように思います。したがって自らに鞭打つ姿勢と粘り強い取材が見えました。
ところが日本のメディア(だけではなく社会全体にある)の1つ の性格である「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、政府の原発・エネルギー政策についても「経済姿勢のためには仕方がない」といったムードに乗ったり かき立てたりという傾向が現れてきています。また報道内容も「震災で家族を亡くした人」や「涙をふるって立ち上がる人たち」のお涙ちょうだい的なものが多く、事故原因や再建策について冷静綿密に追究した報道はあまり見あたりません。もちろんさまざまな例外はありますが、全体としては元の木阿弥状態になりつつあるように感じています。(さまざまな例外の「例」として朝日の長期連載「プロメテウスの罠」や中期連載「原発とメディ ア」、NHKの検証ドキュメントがあります)。