【F1のザックリ70年史】ハイテク化、スター選手の活躍、F1劇場のピーク/1980年代〜90年代
「F1世界選手権」(以下、F1)が70周年の節目を迎えた。本来ならばお祝いのシーズンであるが、2020年は新型コロナウィルスの感染拡大で7月のオーストリアGPにズレこんで開幕する。
「F1が歩んだ70年」を振り返る特集第2弾はF1の影響力がピークを迎えた1980年代〜90年代の20年をザックリとご紹介しよう。
1980年代:ショービジネス化と国内F1ブーム
1970年代に世界的知名度を獲得したF1は80年代になり、自動車メーカーの相次ぐ参戦と新しいマーケットからの資金流入でビジネス色を一気に強めていく。それと共にチーム予算、スタッフ数は拡大し、技術競争も激化していった。
ビジネス化の中心的存在となったのが後にF1のボスとなるバーニー・エクレストン。ブラバムのチームオーナーだったエクレストンは70年代後半にチーム(コンストラクター)の組織であるFOCAの会長となり、チーム側(英国チームが主体)の交渉窓口となる。
金が流れ込めば揉め事になるのはどの世界にもあることで、80年代の前半にはFIA(国際自動車連盟)側のFISA(フェラーリなど欧州チームが主体)とFOCAの間に激しい対立が生まれ、レースのボイコットなどF1は分裂の危機を迎えていた。1981年にFISAとFOCAは「コンコルド協定」を締結。商業面での実権をエクレストン率いるFOCAが握ってからは、F1は商業的成功に向けて拡大路線を辿ることになる。
スポーツビジネスとして確立され始めたF1に多くの資金を流入させたのは我が国、日本。ホンダが1983年にエンジン供給でF1にV6ターボエンジンを投入して参戦すると、日本でのF1への関心が一気に高まる。1987年にはホンダの夢でもあった鈴鹿サーキットでの日本GPが実現。フジテレビでF1が全戦放送されるようになり、日本にF1ブームが訪れる。
それと同時にバブル景気で存在感を増した日本企業が次々にF1に参入。マシンには有名から無名まで様々な日本企業のスポンサーロゴが踊り、数多くのチームが日本企業によって買収されていった。ちなみにこの時代に日本人オーナーの手に渡ったチームはすべて消滅し、今や跡形も残っていない。
さて、80年代は多くのスター選手が誕生したF1の黄金期でもあった。音速の貴公子と呼ばれたアイルトン・セナ、プロフェッサー(教授)の異名を持つアラン・プロスト、荒々しい走りで魅了したナイジェル・マンセル、そしてホンダを初のF1王者へと導いたネルソン・ピケ。
「四天王」と呼ばれた上記ドライバーたちの確執をメディアが煽り、1年のレースがまさに「F1劇場」とも言えるドラマ性に満ちたものになっていった。1989年、F1劇場はマクラーレン・ホンダのアラン・プロストとアイルトン・セナの鈴鹿サーキットでの同士討ちという凄まじいストーリーでピークを迎えることに。もちろん真剣勝負での結末だったが、彼ら主役はもちろん脇役も含めてF1には役者が揃っていた。
また、1980年代はチームの技術競争が加速し、僅か10年で多くのチームが栄枯盛衰を繰り返した激動の時代でもあった。80年代前半はターボエンジンが実力を付け、70年代のF1のスタンダードエンジンだったコスワースDFVでは勝負にならなくなってしまう。
つまりはルノー、BMW、ホンダ、ポルシェ(TAG)、フェラーリなど資金力で勝るメーカーが作るターボエンジンで無ければ、勝てない時代が到来。そんな中、ホンダが1988年にマクラーレン・ホンダで16戦15勝をマークする圧倒的な強さを見せた。そして1989年よりターボエンジンは禁止となり、3500ccの自然吸気エンジンの新F1へと移行するが、メーカーが巨額の資金を投じるワークスエンジンの優位性は変わらなかった。
そして、1981年にカーボン(炭素繊維)で作られたモノコックを持つ「マクラーレンMP4/1」が登場し、カーボンモノコックの時代がやってくる。アルミより軽くて頑丈な、現在では旅客機でも使われる素材で作られたシャシー(車体)がスタンダードになった。
剛性が増し、ターボエンジンの巨大なパワーを受け止め、スピードが向上。さらにドライバーを守る頑丈なカーボンモノコックのコクピットは安全性を高めることにも貢献。60年代、70年代に多発した死亡事故は80年代に激減した(トータル4件、カーボンモノコックでは1件)。
【1980年代F1 主なトピックス】
・1982年 ジル・ヴィルヌーヴが事故死
・1984年 ウィリアムズ・ホンダが初優勝
・1987年 中嶋悟が日本人として初のフル参戦
・1988年 マクラーレン・ホンダが16戦15勝
・1989年 ターボン禁止で3.5L NAエンジンの時代へ
1990年代:セナの死、複雑化するF1
日本がF1ブームに沸いた1980年代後半から90年代前半、世界中の多くの人を魅了したのはブラジル出身のアイルトン・セナだった。
マクラーレン・ホンダのドライバーとして日本のファンに愛されたセナは、日本のテレビ番組やCMにも多数出演し、モータースポーツファンだけでなくお茶の間でもアイドル的人気を獲得した。
ホンダがF1から撤退するニュースを聞いてテレビカメラの前で涙を流す姿や、最強エンジンを失った後も魂の走りで勝利したセナの姿はそれだけでドラマだった。
しかし、そんなセナに悲劇が訪れたのが1994年のサンマリノGP。念願の最強チーム、ウィリアムズ・ルノーに移籍したセナはイモラサーキットで大クラッシュ。そのまま帰らぬ人となってしまう。同じ週末のローランド・ラッツェンバーガーの事故を含む、重大事故が多発していた。
1986年以来となった死亡事故はF1の安全神話を崩壊させ、これを機にモータースポーツ界全体が安全性向上への取り組みに積極的になっていく。今では当たり前のピットでの速度制限など様々な安全性が見直されることになる。
80年代のスター選手たちが引退し、セナ亡き後のF1を担ったのはドイツ出身のミハエル・シューマッハ。強烈な個性と才能で、年間3位争いが現実的だったベネトン・フォードをチャンピオンチームへと導き、名門フェラーリに移籍する。
シューマッハの好敵手となったのがデーモン・ヒルとミカ・ハッキネン。F1に復帰したメルセデスのエンジンを得たマクラーレン・メルセデスに乗ったハッキネンは98年、99年と連覇し、F3時代からのライバルだったシューマッハに打ち勝った。
そして、90年代はエンジンによる優劣の時代が終わりを告げ、最新のテクノロジーと車体製作技術が最大の武器となった。90年代前半は走行中の車高を一定にする電子制御技術=アクティブサスペンションを持つ'''ウィリアムズ・ルノーが席巻。90年代後半はマクラーレン・メルセデスが速さを見せた。どちらも「空力の魔術師」と呼ばれるデザイナー、エイドリアン・ニューウェイ'''が関わった作品だ。
シーズンの行方は優れた車体を持つチームが1強状態で独走することが多くなり、マシンの信頼性も80年代に比べれば遥かに向上したため、レース中にドラマが起こることも少なくなっていく。そこでF1は禁止されていたレース中の燃料給油を94年に導入。ピット作業を含めた戦略の違いを生み出すことで、レースを面白くしようとした。
少ない燃料で軽快に決勝レースを走るF1マシンの迫力、戦略の違いで頻繁に入れ替わる順位など、それまでとは違うレース展開が楽しめるようになった反面、観る者は事前の知識とレース中の情報収集が求められるようになってしまった。
当時はまだラップタイムをリアルタイムで見るスマホアプリなど存在しなかったし、今のはどういうことだろう?とテレビを見ながら考えている間に展開が変わっていった。
マニアにとっては面白いが、コース上でのオーバーテイクシーンは少なくなり、いわゆる名勝負と呼ばれるレースが90年代後半は減少。セナの死も大きく影響したが、この時代に多くの人がF1への興味を失ってしまったのは事実である。
だが、F1は2000年代に再び盛り返す。多くの自動車メーカーを呼び込み、新興国のマーケットを取りに行く拡大路線を進めていくことになるのだ。
【1990年代F1 主なトピックス】
・1990年 鈴木亜久里が日本GPで3位表彰台
・1992年 ホンダがF1から撤退
・1994年 セナ、ラッツェンバーガー事故死
・1996年 ミハエル・シューマッハがフェラーリ移籍
・1997年 ブリヂストンがF1にタイヤ供給開始
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