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【戦国こぼれ話】後北条氏お抱えの軍配者・根来金石斎と白井入道が用いたという、驚くべき不思議な術とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小田原城。後北条氏は軍配師を起用して、作戦を練っていた。(写真:アフロ)

 昔から占いは大人気だが、コロナ禍ではリモートで占ってくれるところが大人気とか。ところで、後北条氏お抱えの軍配者・根来金石斎は、不思議な術を使っていたというが、それはどういうものだったのだろうか。

 なお、軍配師とは占いなどによって、出陣する日や攻撃方法などを戦国大名に提案した(軍師は近世の用語であり、戦国時代には使用していなかった)。

■軍配者・根来金石斎

 小田原(神奈川県小田原市)の後北条氏は、根来金石斎(ねごろきんせきさい)という軍配者を抱えていた。

 根来金石斎は、その名が示すように紀伊国根来(和歌山県岩出市)の出身であった。金石斎は後北条氏に鉄炮をもたらしたといわれており、重用されていた。

 ところで、戦後期の関東の争乱時においては、小弓公方・足利義明が安房の戦国大名・里見義尭に擁立され、後北条氏と対立して威勢を誇っていた。

 後北条氏の家中では、義明と対決するか否かについて、激論が取り交わされていた。その際、家中の動向を左右したのは、根来金石斎の次の発言である(『相州兵乱記』)。

今、義明殿の行状を聞くと、自身の武勇に慢心して威勢をつのり、悪日・吉方を選ぶことなく、無理に出陣を行って天道を恐れていない。これは、良将の好むところではない。

 裏返していえば、名将は悪日や吉方を確認したうえで、出陣を決定したということになろう。二次史料に書かれたことではあるものの、後北条氏は軍配者の意見を重視したユニークな逸話である。

 根来金石斎の予言が的中したのか、天文7年(1538)7月の第一次国府台(千葉県市川市)合戦で、北条氏綱は義明の討伐に成功した。小弓公方の滅亡によって、後北条氏は房総半島での優位を確立したのである。

■軍配者・白井入道

 後北条氏には、もう一人の軍配者・白井入道なる人物の存在がうかがえる。永禄7年(1564)に第二次国府台合戦が勃発すると、北条氏康は里見義尭を敗北に追い込んだ。

 その直後、下総臼井城(千葉県佐倉市)に後北条軍が籠もっていたので、上杉謙信が攻撃を仕掛けた。

 このとき活躍したのが、白井入道なのである。『北条記』には、戦いの様子を次のように記している。

昨日の戦いで後北条軍は勝利を得たのであるが、今日は城中の者がくたびれたのか、風雨を嫌がったのか誰も出て来ない。謙信が「攻めてみよ」と言うと、本庄某があらわれて、「城中には軍配の名人・白井入道が籠もっています」と報告した。そして、「今日は千悔日(せんかいび)という先負の日です。だから、城中から人が攻めてこないのです」と述べた。

 後北条軍が上杉軍を攻めて来ないのには、千悔日が悪日(行動を起こすのによくない日)であるという理由があった。

 このあと続けて、片山の岸が崩れ、山際にひかえていた越後の軍勢数十名が巻き込まれたと書かれている。上杉軍は人馬が多く亡くなったので、悪日のしるしであることに気付いたという。

 2つの例は、ともに二次史料に載せられたものにすぎないが、後北条氏は悪日に対する意識が強かったことを示すエピソードである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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