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【戦国こぼれ話】あの有名な髭の武田信玄の画像は、本人を描いたものではなかった!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
甲府駅前の武田信玄の像。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■甲冑姿の信玄像は本物!?

 現代でも他人の空似ではないが、友人、知人などとそっくりな人を街で見かける。戦国時代は、どうだったのだろうか?

 武田信玄と言えば、すぐに思い浮かべるのは、甲府駅前にある堂々とした甲冑姿の信玄像である。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に登場する武田信玄もそっくり真似ていた。

 禿げ上がった丸顔で太った体格、貪欲で脂ぎったような表情と八の字に開いた口髭は、天下獲りを狙った信玄のイメージと見事なまでに一致するといえよう。

■信玄像のモデル

 信玄像のモデルになったのは、高野山成慶院(和歌山県高野町)所蔵の長谷川等伯(信春)が描いた画像である。これまで、この信玄像は晩年の姿を描いたといわれてきた。信玄の没後、子の武田勝頼によって寄進されたといわれている。

 画像のサイズは縦20.0センチ、横63.0センチの絹本着色で、等伯が用いた袋印の落款や経歴を考慮すると、おおむね永禄7年(1564)から天正(1573~92)初年ごろに制作されたと指摘されている。なお、等伯は能登国の生まれで、のちに染色業者の長谷川宗清の養子となり、画家として名を成した人物である。

■信玄像ではなかった

 約30年前に成慶院所蔵の信玄像は、「信玄を描いたものではない」と中世史家の藤本正行氏に指摘されてから(「武田信玄の肖像」『月刊百科』308号)、それが学界での共通認識になりつつある。

 これまで成慶院所蔵の信玄像は、高校などの日本史の教科書や、武田氏の本には必ずと言っていいほど掲載されてきた。しかし、近年では掲載を見送るか、「伝武田信玄像」とキャプションを施すようになっている。以下、その理由について考えてみよう。

 第一に、画像の制作された期間において、等伯が信玄に面会したという史料が見当たらないことである。等伯が信玄と接触していないならば、信玄が像主である可能性は極めて低いと考えなくてはならない。

 第二に、像主が腰に差している目貫(太刀・刀の身が柄から抜けないよう刺し止める釘)と笄(こうがい。小刀等の鞘に差す整髪用の道具。装飾用)、そして脇の太刀の目貫には二引両紋が用いられているが、武田家の紋は花菱である。やはり、信玄が像主であるとは言い難いようだ。

■以前にもあった指摘

 実は、藤本氏以前においても、成慶院所蔵の信玄像に疑問が寄せられていた。紋章学者の沼田頼輔氏は成慶院所蔵の信玄像には髷があるが、信玄の出家後の姿ならば、髷はないはずだと指摘した。

 出家しても有髪の可能性があるとの見解もあるが、常識的に考えると、剃髪するのが普通である。ただし、沼田氏の説は指摘だけに止まり、それ以上は進展しなかった。

■肖像画の人物は畠山義春?

 では、成慶院所蔵の肖像画は、いったい誰を描いたものなのだろうか。等伯が袋印の落款を用いた時期、また等伯が能登国に誕生した点を考慮すると、能登畠山氏の「誰か」を描いたと推測されている。

 能登畠山氏は家紋として二引両紋を用いていたので、有力になったのだ。畠山氏の「誰」を描いたものかについては、さらに2つの説がある。

 当初、有力だったのは、七尾城主・畠山義続の次男・義春(1545~1643)で、上杉謙信の養子になったことがある。

 成慶院所蔵の画像は50代の男性を描いたとされているが、制作年代頃の義春の年齢は20代後半であり、年齢的に齟齬が生じる。したがって、像主とは認めがたい。同様に、義続の長男・義綱も年齢的に合わない。

■肖像画の人物は畠山義続?

 次に有力なのは、義春の父・畠山義続(?~1590)である。天文14年(1545)、義続は父・義総の跡を継ぎ、畠山家の家督を継いだ。その後、家督を長男の義綱に譲ったが、2人は永禄9年(1566)に重臣から近江に追放された。

 義続の生年は不詳ながらも、永禄末年には50歳前後だったと考えられ、年齢的にも矛盾しない。ところが、一つだけ難点がある。

 義続は、天文20年(1552)頃に出家していたことが確認できる。先述のとおり、成慶院所蔵の肖像画には髷が残っているので、そのことと矛盾する。つまり、義続ではない可能性もある。

 したがって、現時点において成慶院所蔵の像主は、能登畠山家の「誰か」ということになろう。むろん、未だに信玄像であるとの主張があることも、申し添えておきたい。

■ほかにもあった信玄の画像

 となると、ほかに信玄の画像は存在しないのかということになる。高野山持明院が所蔵する武田信玄の肖像画は痩躯の人物で、成慶院所蔵の信玄像と対象的である。

 持明院所蔵の信玄像は、侍烏帽子に武田家の花菱の紋のある直垂という武家の正装姿である。晩年の信玄は病に侵されており、痩せた姿のほうがふさわしいとの見解がある。

 もう一つは、浄真寺(東京都世田谷区)所蔵の甲冑姿の武者像である。この肖像画に似た模本がいくつか残っており、その一つが「出羽武田文書」の逍遥軒(信玄の弟・信廉)筆の信玄像である。

 逍遥軒筆の信玄像には、「高野山成慶院什物」と注記があり、先述した勝頼が寄進した信玄像の模本だったと考えられる(原本は残っていない)。

 浄真寺の肖像画は、これまで吉良頼康の像と考えられてきた。しかし、像主の紋が武田氏の花菱を用いていること、逍遥軒筆の信玄像と画像が酷似していることから、信玄を描いたのではないかと指摘されている。

■決定的な根拠がない

 このように信玄像をめぐっては、いずれが正しいかという決定的な根拠がなく、未だに論争が続いている。今後の研究の進展が期待される。

【主要参考文献】

藤本正行『武田信玄像の謎』(吉川弘文館、2006年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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