すぐキレる子はなぜ「すぐキレる」のか?「世界の哲学が示唆する子育ての神髄」
すぐキレる子は体内に悪い虫がいるからすぐキレるのではありません。本人が何らかを我慢しているからキレます。
何を我慢しているのか?
本人はそれを言葉にできることもありますし、できないこともあります。本人にもよくわからない意識の内奥から、「なぜか」湧き出てくる感情だって、私たち人間にはあるわけですから。
わがままとは何か?
そもそもわがままとは何かを考えた場合、親の意向に沿わない子の意向のことを、多くの親はわがままと言っているのではないでしょうか。
例えば、子どもはおもちゃを買って欲しいと思っている。しかし親はおもちゃを買い与えたくないと思っている。その齟齬を親目線で見た場合、「うちの子はわがままだ」となる、ということではないでしょうか。
同じことを子どもの目線で見た場合、「うちの親はわがままだ」となるはずですが、子どもは子どもゆえに様々な意味で非力ですから、そう言う子は少ない。あるいは「言うと食いっぱぐれるから」と思って言わないようにしている。あるいは、何か言いたいと思っているものの、それを言葉にすることができない。
自己肯定感とは何か?
ところで、自己啓発の業界においてはよく、自己肯定感という言葉が使われます。例えば、「すぐキレる子は自己肯定感が低いからすぐキレるのだ」と説明されます。そしてたいていの場合、「まずは親の自己肯定感を上げましょう」と続きます。
が、自己肯定感とは何でしょうか?
自己肯定感という言葉はマーケティング用語という側面もあるので、明確な定義はありません。しかし、もっとも実態に沿った定義をするなら、「私が私でよかった」という感覚でしょう。それ以上でもそれ以下でもないはずです。
ではなぜ、ある種の子どもは「私が私でよかった」と思えないのでしょうか。
多くのお子さんを見て感じるのは、親が子どもの「本当はこうしたい」という気持ちを否定しているからです。親に否定しているつもりはなくても、じつは否定しているのです。冒頭に述べたとおり、本人にもよくわからない意識の内奥から、「なぜか」湧き出てくる感情だって、私たち人間にはあるのですから。
「本当は遊びたい」という子の気持ちを親が否定して「勉強しろ」と言う。子は「親に反抗したら食いっぱぐれる」という天地がひっくり返るほどの危機感も持っていますから、たいてい親に反抗しません。黙って勉強します。すると、当然のように「自己肯定感」が下がります。親は慌てて自己啓発の本を読みます。負のループが生まれます。
何が問題なのか?
つまり問題は、親が子の「本当はこうしたい」という気持ちを否定するところにあります。その否定が子の我慢を生じさせ、我慢が閾値を超えた時、キレやすい子が生まれます。
では、キレない子はどうしているのかと言えば、黙って我慢し続けます。その結果例えば、中学生にしてお医者から「境界性パーソナリティ症候群B群」などというありがたくない病名を授かったりします。つまり、「私は本当はこうしたい」という気持ちを押し殺して、他者の期待に添うようなふるまいをし続けるようになります。
そこまでくれば、本人は「どう生きていけばいいのか」を完全に見失います。親に「本当はこうしたい」という気持ちを否定されない子どもたちは、「どう生きていけばいいのか」という問いを抱きません。「普通」に生きていきます。否定された子は、その「普通」ができなくなります。要するに、子どもにしておちこぼれるのです。
おちこぼれた子は、親の期待に添い続けるのではない何らか別の生きざまをしたいと願いつつも、同時に、親の期待に応えなければならないという気持ちが消えず、両者が小さな胸の中で葛藤するのみです。
その葛藤がやがて、ひきこもりや家庭内暴力といった形になって表に出てきます。
実存の哲学
私たちの心の中には、自分でもよくわからないものがたくさん存在しています。それは例えば、映画を観て感動した時や、小説を読んで感動したとき、音楽を聴いて深く感じ入った時に、「なんかよかった」という言葉として、少しだけ表に出てきます。
しかし、そういった極めて個人的な感情を前景化させたまま生きると、社会との間に軋轢が生じるので、たいていの大人はその気持ちを奥に隠して「善き市民」として暮らします。
しかし、子どもにはまだそのことが充分に理解できません。なぜなら子どもは自然だからです。
子どもというのは、大人になる練習をしているという側面と同時に、全くの天然自然物という側面もあります。その自然物は自分でもうまく言語化できない何らかの気持ちに非常に敏感です。だから自然物なのです。
キルケゴールに端を発する実存の哲学は、そういったものが私たちの心の中に宿っていることを教えてくれています。