「報道の自由」について微力ながら改めて考えた その2
カチンの森事件の続きである。僕はクラクフで発行された新聞を今も大切に保管する「カチン家族連盟」会長のイザベラ・サリュウシ=スコンプスカさんに「何が知りたいのですか」と尋ねてみた。イザベラさんは「父が収容所でどんな生活を送り、ソ連軍の取り調べにどんなことを話したのか、そして最期の瞬間はどうだったのか知りたい」と語った。
カチンの森事件の犠牲者のうち3000人以上の名前がまだ確定されていない。イザベラさんが手にした新聞に報道の原点があると僕は思う。
スターリンによってソ連圏から追放され、チトー(1892~1980年)の指導で独自の共産主義を歩んだ旧ユーゴスラビア諸国を訪れた時も一人ひとりの氏名を歴史に刻む意義を思い知らされた。
「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という多様なユーゴをまとめたのはチトーだが、スターリンはチトーの自立的対外政策に激怒し、1948年、ユーゴをソ連圏から追放した。スターリンの影におびえるチトーはソ連寄りとみなした人物を粛清する。その数は3万2千人とも6万人ともいわれる。
粛清の舞台となったのは、チトーがクロアチア沖の「ゴリ・オトク(裸の島の意)」に極秘につくった思想矯正施設だった。裸の島では、ソ連寄りとされた者は深さ8メートルの竪穴に放り込まれた。食事に女性ホルモンが注入され、胸が女性のように膨らむ男もいた。ある収容者は薬物を注射され精液を垂れ流して死んだ。自分の頭にねじくぎを金づちで打ち込んで自殺する者もいた。遺体は証拠を残さないよう粉々に処理された。もちろん氏名は記録に残されなかった。
作家ドラゴスラヴ・ミハイロビッチ氏は元収容者の証言集「ゴリ・オトク」をまとめている。裸の島の出来事は収容者の記憶の中にしか残されていないからだ。誰がいつどこで誰に何をされて死んだのか、裸の島では一切の記録は残されなかった。ミハイロビッチ氏が収容者に残虐行為を加えた警察官にインタビューすると、「それが社会のためになると信じていた」と語ったという。
共産主義体制下のポーランドでは、体制に逆らって治安部隊に殺された活動家の墓は跡形もなく破壊された。歴史に残さないためだ。抑圧的な体制に対抗するのは誇り高き労働者、女性、ジャーナリストだった。
新聞記者は在野精神を持ち、いつも弱い者の立場に立って事実を追い求めるというイメージを持っていたが、ネット上の書き込みから浮かびがる記者のイメージは「卑劣」「弱い者いじめ」「既得権の擁護者」だ。
カチンの森や裸の島の話をして、「報道の自由」の意義を語るのは大げさすぎるだろうか。アイデンティティーの重要な一部をなす氏名を社会の記録から消し去る行為に、僕はプライバシー保護の大切さよりも歴史の教訓を思い出す。
英国や米国では、イラクやアフガニスタンで命を落とした英兵士の氏名や人柄は克明に報道されても、戦闘や爆撃の巻き添えで死亡したイラクやアフガニスタンの住民の氏名が報じられることはまずない。英国人でない移民の中でこのアンバランスに矛盾を感じない人はいないのではないか。
一人ひとりの生き様を記録にとどめる作業が糾弾の対象となろうとは。受験勉強をして良い大学に進学して、良い会社に入るというベルトコンベヤーの上に乗っていれば、何の心配もない日本では、プライバシーが何よりも優先されるのだろうか。自分の権利を守るには、まず自分がどこの誰かを明らかにして、意見を表明する必要がある。
僕たちはGHQが主導してつくった日本国憲法で戦後の「報道の自由」「知る権利」「表現の自由」「言論の自由」を与えられた。日本には自由を勝ち取るために議論を積み重ねてきた土台がないので、ちょっとしたことで自由を失いかねない脆さをはらんでいる。
僕は個人的に少々耳障り、かつ目障りな新聞記者がブンブン飛び回り、それを追い払わなければならない社会の方が、プライバシーが守られて静かで穏やかな匿名社会よりも健全に感じるのだが、皆さんはいかがだろう。「実名」と「匿名」、どちらがより個人の権利を保障するのか、自分たちの頭と言葉を使って徹底的に議論する必要があると思う。
(おわり)